2003年のメッセージ

年の瀬に感謝

詩篇138:1-8

2003年12月28日

本日の聖句は「神への感謝」を歌ったとして知られたところであります。特に個人的感謝、即ち作者自ら経験した悩みの中から救われた恵みを、神の前に感謝したものであります。 「感謝」に至る経過は単純なものではなく、幾多の苦難によってあえぎあえぎ渡ってきた結果としての「感謝」なのです。

「幾多の苦難との出会い」の中で、いかなる権力、いかなる暴虐にも優る力を持っておられる方は「神」であられることを経験して来たことを現しています。それは人生という流れの中に神は多くの結果と、更に進行を見せておられます。そこに神の導きと励ましがあるのです。

今、私たちは一年の瀬を迎えておりますが、この時に詩篇の讃美を共に歌えるならば、素晴らしい一年の総括が出来、新しい年を迎える備えが出来ることでしょう。

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牧者となられる方

マタイによる福音書 2:1-12

2003年12月21日

神の子キリストがお生まれになられたとき、人々は様々なお迎えのしかたで迎えております。 初めに東方の博士たちは、黄金、乳香、没薬といった高価なものを携えて来て馬小屋に生まれたイエスに捧げました。

次にユダヤの王ヘロデは、偉大な王の誕生と聞き自らの保身のために、「あとで拝みに行く」などと嘘を言って後に2歳以下の男の子を皆殺しにしております。

第三に「人々」はヘロデの性格から自分たちの上によからぬことが起こるのではないかと「不安」を感じたのです。即ち自らの身を案ずるということでは、ヘロデと「同様」であったのです。

しかし、そのような迎えられかたをされた神の子キリスト・イエスでしたが、世の王として君臨するのではなく、荒野で羊を導く牧者としてその羊のために自らの命を賭けて私たちを守るためにおいでになられたのです。私たちの最高の喜びをもってお迎えしましょう。

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力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました

ルカによる福音書 1:39-56

2003年12月14日

今日の聖書テキストは、マリアの賛歌として二千年の間、歌い継がれてきました。前半は「神はわたしのようなものでもお用いになります」という, マリア個人の感謝と祈りで、マリアは神様が自分に何か特別なところがあるから選ばれてのではないということをよく知っていました。後半は主イエスが来られたら、世界はこうなると言う状況を歌っています。これまでとは違った価値観を主イエスはもたらすのです。そして、神様は破壊ではなく、恵みを、憐れみをおあたえになるのが目的なのです、と賛美します。

マリアの賛歌から私たちは何を汲み取ることができるでしょう。クリスマスとは、救い主がこの世に来てくださるとき、神の国がもたらされるとき。それが私たちの毎日の生き方にどう影響を与えていくのかをどうぞ皆さんそれぞれでご自分のこととして考えてみてください。そして、ご一緒に主イエスのご誕生を心から祝いましょう。メリー・クリスマス!

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救い主の誕生

マタイによる福音書 1:18-25

2003年12月7日

ベツレヘムでお生まれになった神のひとり子イエスの名は、ヨシュアというユダヤ名のギリシア的な呼び方で「ヤハウエは救いである」という意味です。 イエスは命を与え、創造する神の力として世に来られたのです。単に旧約に記された通りになるというのではなく、記されている故にそのことが起こったというのです。即ち、イエスは崩壊された理想を復活させ、消滅した真理への意志をよみがえらせ、人生の意味を失った者に、新しい人生を発見させるために来られたのです。

私たちのまなこを開いて、神がどのような方であるのか、また人がいかにあるべきかを示されるのです。今日この場に私たちの心のただ中に、その方イエスをお迎えして、私たちは礼拝を捧げているのです。

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言と光、そして命

ヨハネによる福音書 1:1-18

2003年11月30日

本日(30日)よりアドベント(降誕節)に入ります。従って宣教内容も、イエス・キリストの降誕に因んでこの箇所(ヨハネ1: 1〜18)を取り上げさせて頂きました。

言うまでもなく、この聖書の箇所が言っている「言と光、そして命」は神の子キリストのことを語っています。即ち、ヨハネ福音書は神の子キリストの存在は、人が信じる信じないに関わらず、初めから神と共にいまし給うたと、宣言しているのです。

この「言と光、そして命」であり給うキリストは、特定の人々ではなく「すべての人を照らす」ために「世に来た」(9節)のです。

二千年前、ユダヤのベツレヘムの馬小屋にお生まれになった神の子キリストは、失望、断絶、紛争と憎しみの中で、もうどうにもならなくなっているこの世の「すべての人」に希望の光を与えるためにお生まれになったのです。この喜びを多くの人に語り伝えましょう。

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成長させてくださる神

マルコによる福音書 4:26-29

2003年11月23日

主イエスは「神の国は次のようなものである。」と語り始めます。大地に種を播き、夜昼寝起きする。種が芽を出し成長するがどうしてそうなるのか、その人は知らない、というのです。

実際は違うでしょう。農作物を作るには、まず種を播き、耕し、鋤でならし、草取りや、肥料をやったり防虫剤を撒いたり、大変な手をかけなければなりません。パレスチナ地方では秋にまだ夏の熱をもった地に種を播き、雨を待って耕すということをします。

でもここではのんびりした様子が描かれています。大地がその中に持っている力によって、種の胚芽を目覚めさせ、種の持っている力を養いそだて、成長させるのだといわれます。人間が、これに力を貸す必要はないのです。

神の国はこのようなものだといわれていることを思い起こしてください。主イエスはここで、神の国は、収穫のときが必ず来るから、種を播いた後は安心して待ちなさい、思い煩いを捨てなさい、と言っておられるのではないでしょうか。

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神、共にいます

創世記 28:10-22

2003年11月16日

本日の聖句は、ベテルにおいてヤコブの見た夢のことが記されております。

彼が荒野の果てに旅しているときにも、神は「主が傍ら立って」(13節)おられ神の愛護の御手の中にあることを「わたしは知らなかった」(16節)と言っています。それまで彼は父の家の祭壇にのみ神は居られると思っていたのに、この荒野で神に出会ったのです。

彼は「恐れおののいて」(17節)います。この「恐れ」は宗教的感情の最も本質的な「畏敬」の「畏れ」であって、神の側から人に近づいて贖い聖化しないではおかない、神の働きに対する「畏れ」です。これはまさに神の人に対するこの上ない恵みと祝福です。

この神の祝福を本日の幼児祝福礼拝において、幼児に贈りたいと思います。それが教会の神に託された大事な役割なのです。そして「いつも神様が幼児と共にいて下さるように」と祈ります。

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甦りの主

ヨハネによる福音書 11:17-27

2003年11月9日

ヨルダンの東におられたイエスのところに、愛するラザロの死が伝えられました。それは死後二日のことで更に二日の道のりを経てベタニヤに辿り着いた時にはすでに「もう、においます」(39節)という状態になっておりました。

イエスはその姉妹マルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。・・・このことを信じるか」(25、26節)と尋ねられました。それに対してマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(27節)と応えました。

イエスは「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します・・・」と祈られ「ラザロ、出てきなさい」と叫ばれると「死んでいた人が、・・・出て来た」(41〜44節)のです。

マルタの信仰を大きな恵みとされた神の出来事だったのです。

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唯一の牧者

ヨハネによる福音書 10:11-21

2003年11月2日

イエスはご自分を「良い羊飼いである」といわれます。それは良い羊飼いは羊のために命を捨てるから、即ち、羊を守るために命をかけて戦うからです。

イエスの戦いはどのような戦いだったのでしょうか。聖書には十字架への歩みこそがイエスの戦いであったことが語られています。守るべき羊のために「良い羊飼い」は自らをさらすのです。その結果が「十字架の死」だったのです。しかし、イエスの戦いは十字架で終ってはいませんでした。三日後の甦りが神の愛の現れでした。

イエスがこの神の賞讃を得たのは、十字架がイエスの自発的服従によるもので、他からの強制によるものでなかったからでした。 そこから真の「交わり」が生じ、その源はイエスと神との「交わり」なのです。その「交わり」に私たちは招かれているのです。あなたもこの「交わり」に与りませんか。

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命と栄光

2003年_月_日

「アブラハムの子」であることは、ユダヤ人にとってドグマであり誇りでありました。彼らは肉による先祖アブラハムを誇るだけでその中心たるドグマを行わず、罪を犯し神の子たるイエスを殺そうとしていることは、「あなたたちは父から聞いたことを行っている」とイエスは言われる、即ち悪魔であるあなたがたの父の言うことを行っているのです。

11章25節では、ヨハネ福音書の基本的信仰命題である言葉、「復活であり命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」とイエスはいっておられます。しかし、ユダヤ人たちはイエスの真意を解することが出来ず、イエスに躓くのです。

神の子が自らを語るときヨハネ1: 1〜2で語られる「永遠のロゴス」がこの論議の中心を貫き通しているのです。

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解放の主

2003年_月_日

本日の引用聖句の中で中心となる箇所は「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8: 31、32)という所です。

ここで「わたし」とは当然イエス・キリストであります。従って「イエスの教えに従うならば、あなたたちはイエスの弟子である。そうするとあなたたちは真理を知り、その真理によって自由が与えられる」といっているのです。

何故ならば、イエスは絶対者である神からの言葉即ち真理を伝えるために人となられたのですから、その言葉に従う者には自由が与えられるというのです。

人の世の様々なおそれから、自らの中にある自我から、差別から、そして罪からイエスは解き放ってくださるのです。

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イエスは世の光

2003年_月_日

本日の聖句の中心となる言葉は「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命のひかりを持つ」ヨハネによる福音書8章12節です。

イエスが神の子として人の世においでになったのは、神のみ旨を伝え、人に救いをもたらすためであります。従って人がイエスに従って行くと言うことは、神のみ旨を人々に伝えて生きる人生を歩むことなのです。

私たちの従い行く方はイエス・キリストであり「世の光」である方なのです。「光」は人生の闇路をも明るくする、人の世を照らす光なのです。そして人に希望を与え、励まし、命を与えられるのです。

この命こそ、私共にとって掛け替えのない「救い」以外の何ものでもありません。

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生ける水

2003年_月_日

イエスは「わたしは『生きた水』である」といわれます。「生きた水」とはイエスの生涯を通して語られた言葉であり、愛の行為でありました。中でも、イエスが人々の罪を背負って十字架に架かられ、父なる神から罪の許しを得てくださったという、命の「水」でありました。

このイエスの言葉であり愛の行為である命の「水」を飲むということ、即ち、信じるということはそれを飲む者がその「水」即ち愛の言葉と行為を引き渡す者となって行くのです。

この「水」はイエスの私たちへの賜物、祝福であって、私たちがあらゆる期待や中傷、理解や誤解を越えて、祝福の引渡し役とされる賜物なのです。私たちはこの引渡し役として、人々に仕え「生ける水」を引き渡していきたいものです。

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神の子の「時」

ヨハネによる福音書 7:25-31

2003年9月21日

イエスはヨハネ福音書7章で「わたしの時」について語っています。この「わたしの時」という「神の子の『時』」は何を意味しているのでしょうか。 それはキリストの十字架を意味していますし、同時に「人間イエス」が「神の子」として人間社会に受け入れられる「時」を意味しています。

当時のユダヤ社会では「メシヤには故郷がない」との見解から、ナザレのイエスはメシヤではないとの見解に立っていたのです。それに対してイエスは「わたしをお遣わしになった方」として神を語るのです。これは神の冒涜であり死罪にあたる重大な罪、即ち、十字架刑へと連なっていくのです。

この神と人のすれ違いを十字架という接点において、救いの業を遂行されるのです。

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いのちのパン

ヨハネによる福音書 6:41-51

2003年9月14日

イエスがご自身を「命のパン」と呼ばれる時、あの「十字架」が語られ、「主の晩餐」が示されています。十字架に架けられた肉体が、その体内を流れ十字架上に流された血潮を、単に比喩的なもの、ゴルゴダの丘において起こった事柄にとどまらず、イエスの「生き様」と「死」そのものを通して、私たちに信仰と希望を与えたように、生の根拠と認識、思考と意志を与え給うのです。

私たちの求めが十字架にに架けられたイエスに向かうとき、イエスの体と流された血潮のゆえに、神の恵みによって私たちの全生活を捕らえ、許しを与え、御国に与らせて頂けるのです。こうして、イエスの「肉」と「血」は私たちの中に入って「食べられ」「飲まれ」私たちと一体となるのです。

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神の業と人の思い

ヨハネによる福音書 6:9-15

2003年9月7日

イエスはエルサレムの人々が、信仰よりも肉の生活に気を奪われていることに、がっかりしてカペナウムに帰ってこられました。ところが、そこには日毎のパン以上に大事な、真理と命と道を語られるイエスを慕い従って来た群衆があったのです。

彼らの多くは、パンのために日毎労苦して来た人達であり、心奪われていた人達だったのです。その彼らが今、パンの心配よりもイエスの言葉を求めて来たのでした。イエスは少年の差し出した「五つのパンと二匹の魚」で充分であることを示されるのです。何故ならイエスは、神が群集の信仰の前に無限の豊かさがあるを示されることを知っておられたからです。

この信仰の豊かさこそイスラエルの民にそしていま私達に求めておられるのです。限りある人の力にのみ信頼するのではなく、神の与えられる豊かさに委ねて日毎の生活を送って参りましょう。

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御子の権威

ヨハネによる福音書 5:19-30

2003年8月31日

「生きるとは」という問いに答えることの出来るのは、唯一聖書だけだと言えましょう。その聖書の中に、本日の聖句があります。 ヨハネ福音書は「死」ということを二様に使い分けています。先ず、「霊的に死んだ」という意味で用いています。霊的に死ぬことは努力の中止を意味します。それは進歩に対する全ての希望を断念することです。キリスト者の生活は静止していることが出来ず、前進か後退かであって、前進の試みを断念することは、死へと滑り落ちることなのです。また、霊的に死ぬことは、悔い改めをやめることなのです。人は罪に対しても、神に対しても、感受性を敏感にしておかなければなりません。

「死」と言うことを文字通りにも使用しています。そしてそれは「復活」が必要であることを意味しています。「あなたが明日をどんな気持ちで迎えるかは、今日何をするかにかかっている」という諺がありますが、主の前に今日という日に新たな決心をたてましょう。

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今も働かれる神

2003年8月24日

38年間、病んでいた一人の男にイエスは「良くなりたいか」と尋ねられ「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われた。するとその男は「すぐに良くなって床を担いで歩きだした」と聖書に記されています。その日が安息日だったのです。

ユダヤでは安息日には、「緊急を要し命に関わること以外は一切の仕事をしてはならない」とされていました。従ってユダヤ人たちは攻め立てました。それに対してイエスは「わたしの父は今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」と言われました。即ち「安息日にも神の愛とあわれみは行われる、だからわたしも行うのである」と言っておられるのです。

私たちの「働く事」の中に、神も共にいて下さり、共に働いておられるのです。人間社会の働きにあっても、信仰の働きの中にあっても共に働いておられる神が喜んで下さる働きが出来るように祈りましょう。

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神の御子

2003年8月10日

本日の聖句で、「上から来られる方」と「地に属する者」との間には決定的な違いがあることを語っています。その違いをバプテスマのヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言い表しています。

そこには「永遠」即ち「無限」と「限りある世界」即ち「有限」との決定的違いが言い表されているのです。「有限」をどのように継ぎ足しても、無限に到達することが出来ないように、私たち人間がどんなに頑張っても神の領域に到達することは出来ません。

しかし、その絶望を上から来られた神の御子を信じ、「受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」と言うのです。即ち神の御子の生き様と十字架そして復活を通して、神が私たちを愛する愛の真実が確認されるのです。

バプテスマのヨハネは今や、喜んで舞台を去り「天から来られる方」のもとに位置するのです。私たちにも「神の御子」を信じ従えと呼びかけています。

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世を愛する神

2003年8月3日

ジャン・カルヴィンの言葉に「ヨハネによる福音書3章16節さえあれば、他の聖書の言葉が例え失われようとも再現することが出来る」という言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3: 16)の言葉は聖書の中で最も人々に愛唱されている言葉です。

神が人を何故愛されるのでしょうか。優れているから、美しいから、様々理由を挙げてみても、私の場合は思い当たらないのです。「愛するが故に愛する」という理由なき愛の前により深く広い愛に気づかされるのです。

「与える」という言葉は具体的には、「人の罪を背負って十字架に架かられた」ということを意味しているのです。即ち、罪の中に埋もれているわたしたちの所に降りて来られて、神が手を差し伸べて引き上げて下さるというのです。何と「有難い」ことでしょう。

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御体なる教会

2003年7月27日

本日の聖書の箇所は有名な、イエスの「宮清め」に起因する「神殿と復活」について語られているところです。 当時のユダヤ教は荒廃した信仰の状況にありましたので、イエスは「宮清め」の劇的な行為をなさいました。しかし、そのことはユダヤ教に対するというより、ユダヤ教指導者に対する反逆でありました。従って後に十字架へと展開して行ったのです。

イエスはその事を承知の上で「宮清め」をなったのです。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と語られたのは、21、22節にあるようにキリストの十字架と三日後の復活について語っておられるのです。

即ち、「教会」とは「キリストの御体」を意味しており、それは外面的形以上に「わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである」という内的充実こそ必要な事なのです。

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人が参与する神の業

2003年7月20日

500 リットルから700リットルの水を瓶に満たしすことは、イエスにも出来ることでした。しかし、弟子たちの信仰のために「召使」に依頼されました。神のご計画は、人を通してなされるのです。それは同時に神が私たちの出来ることを通して、働かれることを意味しています。

それは簡単なこと、小さなこと、とても立派なこととは思えないこと、その時にはとても神の業とは思えないこと、そのような私たちの働きを通して、神は働かれるのです。 だから、宇宙を創造された神は恵み深く忍耐深いのです。神の御心が何処にあるのか、尋ね求めつつ神の御心の真中を歩むことが出来るように、祈りましょう。

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救い主に出会った

2003年7月13日

「見よ、神の小羊」(36節)の言葉は「過越の小羊」(出エジプト12章)、レビ記的供犠の「小羊」(レビ5章)に結びつく思想と考えられます。特にバプテスマのヨハネは審判者としてのメシア観をもっていましたので、イザヤ53章のメシア的展望に深く結びついていたと考えられますので、彼はイエスの神との交わり、使命等を簡潔に言い表すのにこの呼び名が最適だと考えて、「神の小羊」と呼んだのです。

「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレ」(40節)は「わたしたちはメシア(油注がれた者)に出会った」(41節)と言っています。即ち「わたしたちは、たった今『世界の救い主』に出会った」と告白しているのです。

そして、約束された通り「苦難の僕」としての道を現実的に歩み始められたところが、本日の聖句に記されています。イエスが言われた「来なさい、そうすれば分かる」(39節)の言葉は、いまわたしたちが世に向かって言うべき言葉なのです。

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主の道を備えよ

2003年7月6日

私たちはバプテスマのヨハネのように「荒野で叫ぶ声」です。バプテスマのヨハネは、誰に対しても阿ることをせず、たとえそれが権力者であっても、神の真実を語るに何一つ曲げたり妥協したりしませんでした。

彼は、人間的な欲望を一切目的とせず、しかも自分の身の危険を省みず語っているのです。そのためにますます、語る言葉に力を持ち多くの人々が聞き従って行ったのです。

神の真実を語るべき者たちが、自らの繁栄を第一に考えるという神の国の荒廃ぶりは、目にあまるものがあったと申せましょう。この荒廃の中で「主の道を備えよ」と呼ばわるべきことは、今日の私たちも同じ状況に置かれていると申せましょう。

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平安があるよう

2003年6月29日

ユダヤ人たちがガラテヤの人々に、割礼を受けさせようとするのには、二つの大きな理由があったと思われます。一つには、ローマはユダヤ教を認めその習慣に従うことを公に許可しており、割礼はユダヤ人の身を守るものであったこと。次に彼らはガラテヤの人々に割礼を受けさせることで、自分たちの権力を増強して、栄光を得たいと願っていたのです。

これに対してパウロは「わたしは、イエスの焼き印を受けている」(17 節)と言っています。主人は奴隷に自分の所有物であることを示すために焼き印を付けましたが、パウロのいう「イエスの焼き印」は、自ら進んでキリストの奴隷であることを表明する「しるし」であると言うのです。しかも「イエスの焼き印」という十字架のしるしを語ることによって彼は恵みの使者となり、世に対して神との和解を提供することになるのです。

今や、キリストの十字架が世のすべての間垣を取り払い、平安そのものになったのです。

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よい実を刈り取る

2003年6月22日

「御言葉を教えてもらう人」は私たちに違いありますまいが、「教える人」とは誰を指しているのでしょう。 7、8節の言葉から神ご自身であることをしらされます。即ち、私たちが神の御言葉に物惜しみするという、忘恩をもって報いるならば、それは神を「侮る」ことになる、というのです。

イエスの種蒔きの譬えは「道ばた」「石地」「いばらの中」「良い地」の四種類でしたが、パウロのそれは二種類の種蒔きです。 私たちが命じられていることは、自分たちの報酬を人間のもとにではなく、神のもとに求め、また労働の収益を地上においてではなく天国で享受することです。 私たちが結び合わされたのはより高い交わりであって、キリストに源を発し信仰の交わりを通して維持され、継続され、より緊密な結合と一致と共同とせられていくのです。

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導きに従って

2003年6月15日

神のみ霊の働きは、私たちの内面に向けられます。パウロはここで「愛」を様々なものの先においています。即ち「喜び・平和」や私たちが互いに仕え合い、助け合いつつ交わるといった、自制心に先んじて「愛」を置いているのです。

十字架につけられたおかたによって、神の愛を認識したとき、私たちは「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」(24節)それと同時に肉と霊との争いが決定的となったのです。しかしこの争いはイエスの十字架によって解決されるのです。

イエスの十字架のもとにある私たちは、イエスが生きておられるその様に等しく、み霊によって生かされるのです。そしてイエスと共に歩むことを許されるのです。

み霊によって生き生きとされる私たちは、み霊によって歩むことも許されるのです。そして許された者は、自発的にそうすべきですし、それによってキリスト者として必要なものを受け取るのです。

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聖霊の賜物

2003年6月8日

イースターから50日目の6月8日は使徒言行録2章にあるペンテコステ(聖霊降臨)の出来事があった記念の日です。 その日まで弟子たちは「世」と同じように、イエスを確信をもって見ることが出来ずにいたのです。聖霊が彼らに降った時はっきりとイエスを神のもとに見ることが出来たのです。

あの復活の日以来「世」との間に違いがあることを感じていたのですが、それがどのようなことであるのかが、まだ明確になっていませんでした。しかし、弟子たちにその違いが明確にされてきました。それはキリストの「死」にあずかると同様に「生」にもあずかり得ることが明確にされて来たのです。

この喜びが父なる神のもとよりイエスを通して贈られて来る聖霊の絆によって保たれ、たとえ危機にあってもその絆は断たれる心配がないという、平安が彼らに与えられたのです。この喜びと平安こそ聖霊の賜物なのです。

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信仰による愛

2003年6月1日

パウロがこのガラテヤ書で語って来たことは、恵みの道と律法の道とは相反するということでありました。彼にとって最も重要な事は「愛によって働く信仰」でありました。

特に実践的精神の持ち主である彼は、日常の生活に具体性を持たない神学は最も役に立たないものでしかないと、考えていたと思われます。即ち、神学上の問題は日常生活という濾紙にかけられるのです。

パウロにとって日常生活という濾紙は一つは「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」即ち「神に対する責任」です。神がご自身のひとり子を十字架に架けてまでその愛を示されたことに対して、私たちがその生活を汚してしまってよいのか、という問いです。

次に「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という「隣人に対する責任」があります。それは、私たちは自由であるが放縦なものではなく、自ら隣人を愛する自由なのです。

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新たな契約

2003年5月25日

私たちが旧約聖書の歴史物語を読んでいると、しばしば不合理に思われることがあります。しかし、当時のユダヤ社会の人々にとっては理解しやすいことだったのです。

パウロはここで、旧約聖書の歴史物語を取り上げて、比喩的な解釈を加えることによって、キリストの福音という光に照らし出しています。

現代のしかも日本と言う社会にある私たちにとって、わかり難い旧約聖書の歴史物語の中に優れた真実が浮かび出て来ます。即ち、律法主義を人生の原理とする人々は、ただ律法の中にのみ埋没していきますが、恵みを人生の原理としている人々は、「神に愛され」愛を支配的原理とすることによって、すべてのことから解き放たれて、自由が与えられるのです。

その愛の力は、私たちを解き放つと共に、救いの道へと導き入れれ「約束を受けた者」として神に受け入れられるのです。

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膝を交えて

2003年5月18日

真実の神を知らなかった時には、偶像や思想や信念そして迷信等を信じてそれにしたがっていたのでした。それらのものに縛られることは、同時にそれらのものの奴隷になっていることを意味します。

「日、月、時節、年などを守っています。」と言う言葉の中には、律法やその他の風俗習慣を守って、神に従うことを怠っていることが意味せられています。

ガラテヤの教会が今置かれている状況について、パウロは初めの信仰に立ち返ることによって、迷路から抜け出して欲しいのです。

「できることなら」飛んでいって、自分の感情も信仰も全てのものをぶっつけて「初めの信仰」に立ち返らせるために、叱り付けてもみたい、「膝を交えて」「手をとりあって」「肩を抱いて」語りたいのです。しかし、今それが出来ないのです。愛するガラテヤの教会の人々が神の祝福の手から漏れはしないかと、気になったしょうがないのです。

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母を敬うこと

2003年5月11日

家庭が社会の基本的単位であることは、今も昔も、そして日本もイスラエルも変わりはありません。 今からおよそ3,300年前、即ち紀元前1,300年ごろイスラエル民族がエジプトでの奴隷からの脱出を果たして、これから創る国家の基盤とした十戒、神がモーセを通して与えられたもので、一〜四戒までは神礼拝に関するものでありました。即ち国家の基盤の第一を神礼拝においたのです。

申命記5章16節の聖句「あなたの父と母とを敬いなさい」の言葉は、十戒の中の5番目に記されております。五戒から十戒までの倫理規定の中の第一番目として揚げられています。そしてそうすることが「さいわい」の根拠となるといっているのです。

即ち、社会の基本的単位としての家庭、そして国家の安定の基盤がここにあるというのです。

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神の国の相続人

2003年5月4日

当時のイスラエルの制度によりますと、雇い人の子供も雇い主の子供同様に育てられていたようです。即ち雇い主の子供は、財産の相続権を持っていながら雇い人同様にされたことを意味していました。

財産の真の所有者である父親が定めた時までは、養育掛の管理下に子供は置かれていたのです。 それと同様に、人間が父なる神の定められた時までは、この世における律法のもとに置かれていたのです。

その「時」とは、イエスがキリストとして人間社会においでになって、律法に縛られた人々を解き放ち、そこから救い出すときのことを意味していたのです。

従って私たちは、雇い人や僕同様にされていた時期を終えて、今や神の国の相続人とせられ、神の恩恵によって子とせられたのです。私たちが神の子とせられたからには、御国に入ることも、御国を継ぐことも認められたのです。

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神に抱かれて

2003年4月27日

「キリストに結ばれて」とは出会うという意味以上に、キリストに従うとか、似るという意味をもっています。 だからこそ、ガラテヤの教会で問題になっているユダヤ人とギリシヤ人の救いにおける差別の問題も、奴隷は救われないが自由人は救いに与り得るということも、男は聖いが女は汚れているという考え方もないのです。

これらのことは全て、イエスはキリストであるという信仰のもとには、一つとせられ、平等な立場におかれるのです。即ち、キリストを救い主と信ずる信仰においては、対等に神からの祝福を意味するアブラハムの子孫として受け入れられるのです。

イスラエル(神に選ばれたる民)も異邦人(神の選びに与り得なかったとされた民)の差別もなくなったのです。この差別の間垣が取り除かれたのは、あのゴルゴダの十字架において神から全ての人に祝福が贈られたからです。

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神を褒め称えよう

2003年4月20日

人間イエスが十字架の死の中から、人間としての本質を全て備えたまま、新たに命に移されたです。これでこそ福音と申せましょう。何故なら、このことによって人間イエスは永遠の命を与えられ、死を克服し、神の完全な愛の中にいることが明らかになったのです。

今やイエスは永遠に打ち切られることのない神からの派遣の中にあり、解く事の出来ない絆でご自分を人類に結び付けられたのです。 弟子たちはそこにみ言葉が成就したことを認識したのです。その事は同時に予言の成就をも意味していたのです。

イエスが甦られて弟子たちに現れなさったのは、み言葉を人々にもう一度語りかけるためではなく、ご自身を現すことで弟子たちがイエスの言葉を信仰と力をもって、世界に語り始めるためなのです。

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愛ゆえの十字架

2003年4月13日

「されこうべ」の丘に三本の十字架が立てられ、二本は犯罪人のためのもので、もう一本がイエス・キリストの十字架でした。 旧約聖書の預言通り「かれは犯罪人の一人とされた」のです。このことは偶然そうなったのではなくて、聖書の預言が成就し「犯罪人」もまた、救いの対象とされたことを意味するのです。

犯罪人の一人は群集の側に立ち、イエスを試す者、嘲る者、罵る者の立場をとっております。しかし、もう一人はイエスを「御国の権威を受け継ぐ方」として信仰の対象としてうけとっているのです。 それは単に「犯罪人」の一人であると同時にイエスがあらゆる人間の定めをも越えて、救いの可能性が平等に与えられていることを示しているのです。

「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と明確な場所をも示されるのです。この「犯罪人」にとって望み得ないものが与えられたのです。これはまさに恩恵以外の何ものでもなく、彼は「犯罪人」なるが故に遠くいたのではなく、信仰の故に近き者、救われる者とされたのです。

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裏切られても

2003年4月6日

最後の晩餐は過越しの食事の中でのことであったのはご存知の通りです。この過越しの祭りは、イスラエルの民がエジプトの奴隷であったとき、カナンの地に帰らせて欲しいと願ったのですが、パロは頑固に拒否し続けました。その頑固さに対して神は「神を信ずるものは家の門に子羊の血を塗るように」告げられ、塗られていない家の長子の命を奪うということが告げられるのです。これが過越しの出来事でした。イスラエルの民はこの出来事を毎年忘れることのないように守り続けたのです。

イエスは過越しの食事を前にしながら、ご自身が直面しておられる十字架への道を、弟子たちの胸にしっかりと刻みつけるかめに、最後の晩餐の時を設定されたのでした。

ユダやペテロをはじめとして、隠れたり逃げさったりする弟子たちであることを充分に承知しながら、神は裏切るものすらも愛し、彼らのためにみ子キリストを十字架につけてまで愛しておられることを思い起こし、人々に語り伝えるものとなる様に、最後の晩餐を設定されたのです。

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信仰の相続

2003年3月30日

イスラエル民族にとって、神からの祝福の約束は何にも代えがたいものでした。

ところが、その大事にしていた筈の「祝福」が神に対する信仰という最も大事なものを置き忘れて、その信仰を入れる器である律法が、あたかも中身であるかの如くに考えて、律法さえまもっていれば約束の祝福を継承できると思っているイスラエル民族への警鐘として、神の子イエスが人となられたのです。

律法がたとえ破棄されたとしても、アブラハムに与えられた祝福の約束は決して破棄されることはないのです。何故なら、人間の相続についての遺言でさえ破棄されないのだから、神の約束が破棄されよう筈がないのです。この事は神のみ心の中で、異邦の民も祝福を受け得る者とせられることが含まれていたのです。

このパウロの信仰は単に彼の弁舌が優れていたからではなく、彼の信じる神の偉大さと、人間に対する愛の深さを物語っているのです。

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希望の約束

2003年3月23日

「人間の遺言でさえ、いったん作成されたら、これを無効にしたりこれに付け加えたりすることは、だれにもできない。」(15節)と大事に扱われるのなら、神のなされたアブラハムとの約束であるキリストへの祝福が大事にされるべきことを、パウロは強調するのです。

イスラエルの民にとって、アブラハムは信仰の父とも民族の父とも仰がれた人物であったのは、彼の信仰の生き様が誰にもましてイスラエルをその窮地から救ったからであります。このアブラハムへの祝福を受け継ぐべき者が、「彼の子孫」という単数になっているのは、「キリスト」という特定な一人を指していることを意味します。

即ち、神の祝福のご意思を受け継ぐ者を通してのみ生かされるのです。あのゴルゴダの十字架の出来事を通してのみ受け継がれるのです。それは神の栄光を現す為のものであって、人々のために十字架を負ってこそ祝福の継承者なのです。

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あなたが救われるために

2003年3月9日

神は人間の表面的行為のみを問題にしておられるのではなく、目には見えない魂の中まで見通される神の前には、表面的行為に留めることは神を無視した信仰ということになるのです。また、行為によって救いを得るためには、完全であられる神の前にその行為も完全でなければなりません。ところが、人間には完全とか絶対といったことはありえないのです。 ただ、神を信じる信仰においてのみ、つまり神の前に無条件降伏をして人間の力によっては「救い」「義」は得ることは出来ないことを告白しない限り「救われて生る』ことは出来ないのです。

「律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもいない」。「律法を行う者は律法によって生きる」という限定から逃れることは出来ないのです。その限定は人間という限定であり、決して「救い」「義」という神の領域に行き着くことはないのです。 パウロの切なる願いはこの「救い」、この「義」、この「生」を全ての人が受けられるようになることです。

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例外なき祝福

2003年3月2日

神がアブラハムに語られた言葉の中に「すべての国民は祝福されるであろう」とありますのは、異邦人がその信仰によって義とされ、救いにあずかることが出来ることを神は予知しておられたというのです。

神が十戒によってイスラエルを救いに入れ給うという、恩恵にあずからしめて下さったにもかかわらず、人間の持っている罪性によって、律法が信仰に根ざさないものにしてしまうことを、神は見通しておられたのです。そのことによって、信仰という中身のない、外面だけのものとしてしまったのです。

しかし、神はイスラエルに対して変革をもとめられると同時にこの時を異邦人にも救いの時とされたのです。イスラエルにとってアブラハムは信仰の父であると同時に、異邦人の祝福の源ともされたのです。その祝福が今や私たちにも与えられるというのです。しかも「すべて」即ち「例外なく」祝福されるというのです。なんと幸いなことでしょう。

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信じて救われる

2003年2月23日

信仰を現すのに最も受け入れやすい方法は、具体的な人物をあげることである。その最もよい人物がアブラハムである。彼はユダヤ人にとって「信仰の父」と仰がれた人物である。

彼は「神を信じた。それによって彼は義と認められた。」(6節)と語っている。これは創世記15章6節の「アブラハムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。」の引用である。

アブラハムは律法を行ったから義と認められたのではなかった。何故なら、アブラハムの時代にはまだ律法は与えられたいなかったのである。従って「義と認められる」即ち「救われる」ことは「神を信じた」ことによるのであって、「律法の行い」によるものではないことが明白であるとパウロは語るのである。

そこには、人の行為に先立って神の愛があること、神が先ず人に手を差し伸べておられる状況が証されているのである。アブラハムが神に示した無条件の信頼を、神は「義と認められた」のである。

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神からの賜物

2003年2月16日

パウロは律法そのものが、人間によって作り出されているというのではなく、律法の中核を無視した律法遵守の行為によって救いがもたらされるという、信仰のあり方に問題を感じ否定し、救いが一方的な神の恩恵によって与えられることを強調するのです。

「聞いて信じる」以外何も出来ない(主の為に何かをしたいと思っても、何も出来ない人)にとっても例外なく、信仰が与えられ救いがもたらされることを彼はいうのです。

「あれほど大きな経験をした」という「経験」とは、この掛け替えのない信仰を与えられた経験のことをいっているのです。 それにも関わらず、ガラテヤの人々は人間の力、行為によって獲得でもしたかのように思い込んでいることは、とんでもない誤りなのです。あなたがたの信仰は「み霊を賜」わったからに外ないのです。

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聞くことによって信じる

2003年2月9日

かつてパウロによって語られ、ガラテヤの人々の中に具体的にイエス・キリストの十字架が描き出されたにも関わらず、今ほんの一握りの言葉によって、崩されてしまうことが情けないのです。

彼らの魂に語りかけられたのは、神のみ霊であったし、み霊によって信じた事柄であったにも関わらず、そのみ霊の業が人間の業によって覆されることがパウロには理解できないのです。

キリストの十字架というこの上なき福音を、律法即ち割礼という人間を救うことの出来ないもので、仕上げをしようとしているのです。

キリストの十字架が、罪を拭い去ることが出来るのも、み霊を受けたからであり、信じたからこそみ霊を受けたのでもありました。この事は相互同時に起こることでありますが、この福音を聞いたからこそ起こったことでありました。

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信仰によって生きる

2003年2月2日

パウロは「今」の自分が何によって生きるかを、「律法に死ぬ」ことによって「神に生きる」といっています。 「律法に死ぬ」ということは、過去の自分が神の福音のもとに律法が打ち破られて、自ら信じていた律法の定めに従って死んだものとなったことをいっています。

従って、過去の自分は「キリストと共に十字架につけられた」のです。それは「わたしのうちにキリストが生き」られるためでした。そのことは、自分に課せられた義務的、運命的なものではなくて、むしろ喜びとして自ら望んで得たいと思う、光栄であったのです。だからこそ彼にとって福音であったのです。

今、彼が生かされ導かれているのは、神の一方的な恵みにほかならないのです。この信仰においてのみ救いの望みを持ち得ることを信じてクリスチャンになったのです。

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信仰による義

2003年1月19日

信仰以前に救いがあるとする律法に対してパウロは、ユダヤ人クリスチャンがもう一度律法による救いに帰ろうとすることに、警告を発するのです。ユダヤ人クリスチャンが異邦人との交わりを避けようとする気持ちを理解できるとしても、キリストを信ずる信仰によって「義」とされた者が、律法を遵守するという表面的行いによって仕上げようとする、偽善的行為を認める訳にはいかないのです。

何故ならば、道徳的にどんなに優れていても、それが救いの条件とはなり得ないように律法によって救いを勝ち取るものではありません。「義」とせられるのは、神の一方的恵みによって、キリストを信ずる信仰においてのみ、人は「義」とせられるのです。

パウロはユダヤ人異邦人を問わず、律法の遵守の中に救いがあり得ないことを知って、キリストを信じてクリスチャンとなったことを思い起こさせようとしているのです。

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主と共に歩む

2003年1月5日

「人」と言う字は、互いに助けあって生きると意味をもっている、といわれていますが、日本倫理学会長であられた和辻哲郎氏は「人間の学としての倫理学」の中で、「『人間』というものは、本来、人と人との間というふうな意味である。つまり、人間社会という意味で、人間というものは一人で生きるというものではなくて、人間社会に生まれて、はじめて人間でありえる」と書いておられます。

コロサイ書2章6、7節で言っています「かれにあって歩く」ということの中で、どこを「歩く」のかと言う点が自明のこととされています、即ち人間社会です。その人間社会を「歩く」というとき、キリストに深く確かに繋がっており、根ざしているならば、この世において確かな「歩み」が出来ることが語られています。即ち、キリストの福音に生かされて「人」と「共に」「歩む」とき私たちは育てられていくのです。

今年の「歩み」を積み上げるとき、互いに助け合い、励ましあって参りましょう。

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