2004年のメッセージ

主に感謝

コロサイの手紙 2:6-7

2004年12月26日

キャンプ・ファイヤーのときに、よく用いられる譬えですが、薪の炎は一本だけでは直ぐに消えてしまいます。しかし、数本が組み合わされているからこそ、炎は大きく燃え盛ることが出来るのです。

それと同様に教会で数人で或いは教会全体で担っていくとき、祝福は拡大され多くの人が生かされていくのです。 本日の聖句において言っています「キリストに結ばれて歩みなさい」という言葉の中で、どこを「歩く」のかという点が自明なこととされています。即ち、私たちが遣わされている場、この人間社会です。

キリストに深くそして確かに繋がっており根ざしているならば、人間社会において確かな「歩み」をすることが出来るのです。 私たちの教会が、キリストの体としての歩みをしていくために、この一年多くの恵みの中を護られ導かれてきたことに、感謝しつつまた新たな決意をもって新年を迎えるべく、備えを致しましょう。

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人なる神

ヨハネによる福音書 1:14-18

2004年12月19日

ヨハネによる福音書の全体を通していわんとすることが、この14節に集約されていると言えるでしょう。神の独り子たる「言」(ロゴス)が「肉体」即ちイエスという人になり給い、そして「わたしたちの間に宿られた」(14節)のです。 しかも「恵みと真理とに満ちていた」のです。それは絶望に打ちひしがれていた人々に、救いをもたらす「恵み」と、何ものにも打ち破られることのない、神の実在を示す「真理」に満ちていたというのです。

この出来事がおこったのが、二千年前のイスラエルの片田舎ベツレヘムでした。そこはダビデの出身地という過去の栄誉はあったものの、人々に忘れられた小さくて、貧しい街だったのです。

このイエス・キリストが、今も私たちの中に住み、ある時は先立ち、またある時は共に歩み、背後にて押し出だし、支えてくださるのです。この喜びを人々に語り伝えようではありませんか。

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まことの光

ヨハネによる福音書 1:6-13

2004年12月12日

本日の聖句のヨハネ福音書1章9節に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とありますが、その中に「まことの光」という言葉の背後に『偽りの光』がひそんでいるようです。即ち、いかにも正しく見える言葉でありながら、「まことの光」とはまったく異なった光をそこに見出すのです。厳しい掟が語られ、誰も異議を挟み得ない宣告は正しく光に満ちているように見えます。しかし、それは聖書のいう「まことの光」ではないのです。光に愛がなければそれは『偽りの光』なのです。

詩人、八木重吉はキリストを「右手に光を持ち、左手に愛を持っておられる方」と言い、光ですべてを見せて、愛で救ってくださる方だ。と語っています。神の子キリストが人の世に「まことの光」としておいでになった出来事がクリスマスなのです。この喜びを多くの人々に知らせましょう。

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初めに言(ことば)あり

ヨハネによる福音書 1:1-5

2004年12月5日

本日の聖句、ヨハネ福音書1章1節にある「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」はすべてに先立って「言」が存在していたことを宣言しているのです。それは理解を超えた秘儀です。

そして、この「言」は「人」となられたイエスであることを示しています。即ち、イエスは神が人を愛しておられることを「人」に知らしめるために、神に送り出されておいでになったと言っているのです。 その「言」は「人」を「命」に至らせる希望へと導いてくださるのです。たとえ「人」がイエスを受け入れず、十字架に架けて死に至らしめても、神は「人」を愛するが故に救いに導かれ、永遠の命を与えられるのです。

クリスマスは神の独り子イエスのお生まれになられた、喜びの日です。その祝いの備えをするアドベント(降誕節)を共に神に感謝しつつ過してまいりましょう。

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神からの光

創世記 1:1-3

2004年11月28日

本日の聖句にある「光あれ」という神のことばは、天地の創造者であり絶対者であられる神の宣言です。この神の前に人はただそのまま「承る」しか術がないのです。即ち創造者が被創造者に対して一方的に宣言し、人はただ平伏し拝し承るのみなのです。

しかし、与えられた「光」は物理的な「光」に留まらず、人々に希望と救いをもたらす「光」でもあるのです。創造者なる神がご自身の独り子を人の世に送られ、人々の罪のために十字架に架けてまでも愛しぬかれという、よろこばしき福音を知らしめることでもあったのです。

今日から始まるアドベント(待降節)は、このよろこびのおとずれを私たちの心のうちに受け入れ、多くの人々と共に神を褒め称える備えをするとき(4週間)なのです。どうか愛する人々が共によろこびのおとずれを心から讃美されますようにと祈ります。

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信仰の道

テモテの手紙一 6:20-21

2004年11月21日

「テモテよ、既にあなたは神からの恵みを受けてしまっている。只あなたはその恵みを奪われないように気をつけなさい」とパウロは父の愛をもって勧告するのです。

その恵みとは第一に神の言葉です。その言葉が「異なる教え」によってへし曲げられたり、「遠ざけられたり」しないように気をつけなさいと言うのです。エフェソ教会の人々の信仰が守られるようにしなければならないのです。

それは「認識」が神のみ言葉に先立つのではなく、あくまでも神の恵みとしてのみ言葉に「認識」は聞き従うものでなければならないのです。「認識」が「神のみ言葉」に先立つとき、もはやそれは「神のみ言葉」ではないとパウロは断言するのです。

「恵み」即ち「神のみ言葉」が「あなたがたと共にあるように」とパウロはテモテへの手紙を結んでいます。

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堅固な基礎

テモテの手紙一 6:17-19

2004年11月14日

お金はとても大事なものです。しかし、使い方を間違えると有害なものにさえなります。お金のゆえに人を殺したり、騙したり、親しい友と仲たがいしたりしてしまいます。従って、お金に支配されるのではなく、人がお金を有益に使うようにしなければなりません。

富んでいる人がついつい高慢になってしまうことがよく見受けられますが、パウロはテモテに「富んでいる者たちが高慢にならないように忠告しなさい」と勧めています。むしろ「受けるより与える方が幸いである」という信仰の姿勢で、「お役に立てさせて頂く」という謙虚さもって、「この地上に蓄えをするのではなく、天に宝を積むことに努めなさい。」と勧めているのです。

「天に宝を積む」ときお金よりもむしろ、行いそれも愛の行いが最も優れた宝だといえるのではないでしょうか。即ち、神の国における「堅固な基礎」は愛の行いを積むことによって築かれるのです。

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永遠の命

テモテの手紙一 6:11-13

2004年11月7日

パウロは若き牧者テモテに「神の人よ、あなたは金銭の欲から解放されなさい」と言っています。それはテモテ自身が捉えられているのではなくて、その考え方に巻き込まれてはならないと言っているのです。

それよりむしろ、「義と敬虔と信仰と堅忍と柔和を追い求めなさい。それが、信仰の高貴な戦いなのです。そして、永遠の生命を掴み取りなさい。あなたはそのために召されているのです」と勧めています。何故なら、「あなたは多くの証人のまえで、あのキリストの十字架の出来事を証し、約束したのですから」いましめ即ち、テモテの信仰告白でなされた「約束」を、主イエス・キリストの再臨の時まで守って行きなさい。と勧めています。

このテモテへの進言は、同時に私たちへの進言でもあるのです。入信の時の信仰告白は、主となされた約束・契約でもあったのです。今一度初めの信仰に立ち返り、主との約束を思い起こし、信仰生活を歩んで参りましょう。

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信以足知

テモテの手紙一 6:6-10

2004年10月31日

ヨブ記1章21節に「わたしは裸で母の胎を出た、また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られるのだ、主のみ名はほむべきかな」とヨブは言っております。

生活手段の獲得、人々との交わり、私たちの使命の遂行という生の全領域に広がっている助けは、「足るを知る」ことと結びついた中で敬虔だけが私たちに真の益をもたらすものだといえるでしょう。

従って、イエスの忠実な僕は身体を養い、身を包むものさえあればそれで「足るを知」り、そこからまっすぐに神とその意志に向かうことで充分とするのです。何故ならばどのような富も神の国に入るときには、全て置いて行かなければならないものだからです。

神の国に行くとき人間は二つだけ持って行けます。それは物ではなく、一つは自分自身もう一つは神のもとに行けるという固い確信です。この二つだけを大事にして今日の一日を歩んでまいりましょう。

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神の家

創世記 28:10-22

2004年10月24日

パウロは「異国人」「寄留者」と言う言い方で、キリストなき人々を言い表しています。と言うのは「異国人」は旅人や出稼ぎ人であって、定住していません。「寄留者」はもう一歩定住はしていますが、宿り人であってやがて故国に帰る人、即ち、いずれはこの場から離れ去って行く人々のことを表しています。

しかし、キリスト者は「外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族」であると言っています。即ち、人々が神の前に安らぎを求めて帰ってくる場が「神の家」であり、現世においては「教会」が「神の家」なのです。

私たちの教会は「安らぎ」を与え「力」を与え「送り出し」てやることの出来る「神の家」、「神の家族」の定住の場、安住の場となることの出来る所なのです。私たちにそれだけの力量がなかったとしても、神様が私たちをそのように用いてくださるのです。なんと素晴らしいことではありませんか。

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高慢という病

テモテの手紙一 6:3-5

2004年10月17日

パウロは三回目の「異なる教え」について、「高慢という病」だと言っています。 何故ならばイエス・キリストの言葉と並んで自らの教えを、神の啓示として語り、且つまた、それをより高いより深い教えと主張していることを指摘しています。それは正当な判断をなし得ない病的な状態に陥っていると言うのです。

彼らの「精神は腐り」「信心を利得の道と考える」考えは、真理を離れた虚しい人となり、そのような人は、愛なく交わりを破るに至るのであって、その行き着くところは、争いといがみ合いという当然の結末を迎えるのです。

キリストの「教え」に合致しないこの様な「教え」は教会を整えるどころか、混乱と争いそしていがみ合いに引きずり込んでしまうのです。この過ちを繰り返すことのないように常に祈りつつ正して参りましょう。

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神に仕える

テモテの手紙一 6:1-2

2004年10月10日

当時のエフェソ教会には奴隷の教会員が沢山いたと思われます。その中には、主人がクリスチャンでない場合、クリスチャンである場合とあったようです。この二つのケースには、キリストの教えに従わない主人にどう仕えるかという問題と、主人がクリスチャンの場合にはついつい甘えてしまうと言う問題があったようです。

それに対して、パウロは前者の場合には「キリストに従う者の行いを通してキリストを証しなさい。」と教えています。後者の場合には、「主人の業はキリストの業なのだから、キリストに仕えるように仕えなさい。」と勧めているのです。

今日の私たちにとって、本日の聖句は何を示唆しているでしょうか。今日の社会にあって奴隷と主人とまでいかなくても、合い通じるケースがあるのではないでしょうか。そんなときわたしたちはパウロの勧めが如何に力と励ましになるかを知らされることと思います。

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明かされる事実

テモテの手紙一 5:23-25

2004年10月3日

人との関わりにおいて最も困難な問題は、引き起こされた問題の原因が明白にならないということでしょう。そんなとき若き牧者テモテは胃を痛めるほどに悩んだようです。従って「水」を飲むという一時的な痛みおさえをしていたと思われます。そんな時パウロは戒律に縛られた考え方をやめて、気を休めるために「ぶどう酒を少し用いなさい」と勧めています。

更に、深く考えることも大事だが、神の裁きに委ねることを忘れないようにとも勧めるのです。実はこのことが最も大事なことであることは言うまでもないことなのです。

人の間で立てられた戒律に縛られて、人間的悩みに振り回されていたのでは神の業を行うことは出来ません。従って、戒律から自由にされ、精一杯の後は神に委ねて行くことによって、神に託された業を果たしていくことが出来るのです。

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教える労苦

テモテの手紙一 5:17-22

2004年9月26日

「特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい」(17節)と訳されていますが、ここは「二倍」を「二重」とする方が適当ではないかと思います。即ち、報酬の言葉が金銭的報酬と受け取られる今日においては「二重」とすることによって、金銭と敬意の二重を意味する言葉として受け取ることができるからです。

御言葉を教えることは牧師に限られてはいません。全てのクリスチャンに託されたことです。御言葉の宣教を本業とする牧師と自らの信仰に基いて証するクリスチャンとは、同じ御言葉を教える者であることに違いはないのです。従って「二重」の報酬即ち、賞賛に値するといえるのです。

御言葉の宣教は神からの委託ですから、教会は委託のしるしとして「手を置く」という按手の儀式を行いました。それは同時に教会との共同の責任において宣教の業を担うことを誓約する事でもあったのです。

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弱者を支えよう

テモテの手紙一 5:11-16

2004年9月19日

一世紀末、キリスト教が誕生して間もない頃の地中海沿岸社会では、女性が仕事を持ち自立することは、至難の業であったと思われます。なぜなら、女性の働き場は殆どなかったのですから。従って、離婚したり、先立たれたりした場合には、即座に生活に困る人たちがいたわけです。

その人たちにお世話をすべき家族があれば、その家族が世話をすることがユダヤ社会の伝統となってはいましたが、それでも生活に困窮する「やもめ」といわれる人たちに対して、パウロは60歳以上の人たちに対して、教会が世話をするようにと言っています。しかも、彼女たちは教会の一翼を担う人々として尊ばれなければれるべきだというのです。

私たちに今日の聖句を通して投げかけられたテーマは、「弱いことは、悪いこと」という考え方に立っていないか?ということではないでしょうか。

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敬老とは

テモテの手紙一 5:1-2、9-10

2004年9月12日

教会の様々な人々に対する牧会的配慮について、パウロは若き牧師テモテに教えています。特に本日のところは、高齢者について取り上げています。年老いて今まで出来ていたことが出来なくなって行くのに対して「とがめてはいけない」と言っています。それは人生の先輩に対して、敬意をもって接しなければならないと言っているのです。手の業は日々衰えても経験からくる知恵は大いに役立つのです。

従って、様々な働きのなかでその人に適した、その人に出来ることを担って頂く様にと勧めています。誰にでもその人でなければ出来ない事が必ずあります。その業を今までのように素早くは出来なくても、ゆっくりと時間をかけて教会の奉仕に参与してもらうようにしなさいと、勧めているのです。

私たちもパウロの勧めを受け入れて、教会の働きのためにそして、年老いた人々のために配慮をしてまいりましょう。

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家族の世話

テモテの手紙一 5:7-8

2004年9月5日

パウロがテモテに書き送った書簡に、キリスト者の第一の課題は「自分の家族に対する配慮である」といっています。それは祖母や母に対する配慮だけではなく、兄弟や姉妹に対しても同様であったのです。このような人としてごく基本的な課題さえ疎かにするものを、パウロはキリスト者として認めないのです。何故なら、そこにはキリストへの従順がないからです。

キリストへの従順を誓ったあの信仰告白「神を愛し隣人を愛する」が、言葉だけでなく行為によっても告白されなければ、告白をしていない人以上に、キリストに対する不信行為となり、み言葉を投げ捨てることになるからです。

教会は祖母や母、そして兄弟姉妹のことに心を配るようにと、真剣に取り組まなければならないと老練なパウロが若きテモテに勧めているのです。

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身寄りのない人のために

テモテの手紙一 5:3-6

2004年8月29日

パウロがテモテにこの手紙を書き送った頃のキリスト教会には、「やもめ」と呼ばれる婦人たちが沢山いたようです。何故ならユダヤ社会では、一夫多妻が容認されていましたが、キリスト教会では一夫一妻でしたので、離婚してでもキリスト教徒になる人、あるいは離婚されてキリスト教徒になった人、離婚されて貧しさのゆえにキリスト教会の門を叩いた人たちがいたと思われます。

特にその中でも、身寄りのない人々に対して教会は手を差し伸べたのでした。しかも神以外に頼りとするもののない人々に対して、敬意をもって接するようにと、パウロは勧めています。なぜなら、この信仰の姿勢こそ模範だからです。

更に、教会は主を信ずる人々を、兄弟姉妹と呼び、神のもとにあって家族とされているのですから当然、身寄りのない人に身を寄せ、心を寄せて行くように勧めているのです。

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人の模範となれ

テモテの手紙一 4:11-16

2004年8月22日

14節にある「恵みの賜物」の言葉の持つ意味は、テモテに限らず任職の按手を受けるときには、霊を受けその力によって任務を遂行する賜物が与えられるという信仰に基いた言葉です。

テモテの場合は「用いられることを求める神からの賜物が与えられている」とパウロは理解していたようです。この賜物は外面的に抜きん出た特別な才能があるというのでもなく、特別な力を持っているというのでもないのです。しかし、この賜物は忠実に「努める」とき「進歩がすべての人に明らかになる」と言っています。そして、その結果彼の「教え」は互いに作用し合って真理をあらわにし、自他を「救うことになる」と言っています。

あなたに与えられた「賜物」は何でしょうか。そして他人と比較して少ないとお思いでしょうか。人の目にはそのように見えたとしても、神は掛け替えのない「賜物」をお与えになっておられるのです。さあ、その「賜物」を活かし用いてまいりましょう。

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平和を実現する

マタイによる福音書 5:9

2004年8月15日

本日の聖句マタイによる福音書5章9節「平和を実現する人々は幸いである、その人々は神の子と呼ばれる」は山上の垂訓と呼ばれる箇所の一節です。

ここでイエスは「平和を実現する人々」といっておられます。即ち「平和」は「実現」すべきものであって、既にあるものでもよそから与えられるものでもないのです。しかもイエスが言われるからにはあの十字架と無関係ではないのです。

即ち、彼を傷つけて死に至らしめた人々の為に「父よ、彼らをお赦しください。自分がなにをしているのか知らないのです」と執り成しの祈りを十字架の上で、苦しみの中で祈っておられます。

そこで「実現される平和」こそが、イエスの言われる真の「平和」なのです。その「平和」を実現する者のみが「神の子」として受け入れられるのです。「平和を実現する」ためにイエスと共に歩み続けましょう。

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教会を建てる

マタイによる福音書 16:13-20

2004年8月8日

イエスは公生涯を終えていよいよ十字架への道を進まれるにあたって、この異教の地に立たれて、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねられました。それに対して「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「エレミヤ」と答えています。いずれも人々に尊敬された預言者です。

しかし、イエスが聞きたかったのは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いでした。何故なら、この弟子たちに宣教の業を委託していかなければならないからです。シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をしています。するとイエスはこの信仰告白に対して「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロわたしはこの岩の上に教会を建てる」と言われました。

21世紀の今日においても、私たちの信仰告白という土台の上に教会を建てると言っておられるのです。この光栄ある業を喜び担って参りましょう。

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立派な奉仕者

テモテの手紙一 4:6-10

2004年8月1日

パウロは仕える務め、即ち、教会のために配慮するものでない上に立つ権力というものを認めないので、「あなたがたはキリストの僕である」というのです。上に立つ者こそが僕として仕えるべきことをここで語っているのです。

そのためには鍛錬が必要だとも言っています。それも、外面的修行のようなものではなく、内面的鍛錬こそが「生」の全領域において有益であるというのです。断食・禁酒・肉体の鍛錬は一部的な鍛錬にはなるが、霊的鍛錬のように「生」の全領域にいたるまでに有益とはならないのです。

神に向って歩むとき、敬虔なものとされ、私たちのいのちを得ることとなり、未来が明るいものとなり、一日一日が祝福に満ちた日々となるのです。私たちはこのために日々奮闘と戦いをしているのです。

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いま応えよう イエスの招きに

2004年7月25日

イエスがシモン(ペトロ)に「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカによる福音書5章10節)と言われたとき、ペトロは「すべてを捨ててイエスに従った」(11節)と本日の聖書の箇所に記されています。

ペトロにもいろいろと事情があったと思われます。しかし、彼は「すべてを捨ててイエスに従った」のです。それも、「状況が整ったら」でも「挨拶をすませたら」でもなく、即座に「従った」のです。

わたしたちはどうでしょうか、確かに常識的には「状況を整え」、「段階を踏んで」「周辺に対する配慮」をしたうえで、「従って参りますので、暫くお待ち下さい」と言いたいところでしょうが、神はわたしたちに「いま、イエスの招きに、応える」ことを望んでおられるのです。

(松崎神学生)

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神への感謝

テモテの手紙一 4:1-5

2004年7月18日

グノーシス主義では精神は善、物質は悪として特定のものを排除することで清くなろうとする考え方をしておりました。それに対してパウロは「神が造ったすべての物を見られたところ、それははなはだ良かった」(創世記1章31節)の言葉のもと、「神がお造りになったものはすべて良いものであり」(テモテ一 4: 4)と言っているのです。

人は自らに非を認めざるを得なくなると、何ものかに原因や責任を転嫁して、自らを正当化しようとするところがあります。しかし、信仰者は自らを清めることは「神の言葉と祈りとによって聖なるものとされる」(5節)ことを知っているのです。

この信仰の闘いは、まさに私たちの只中で行われているのです。悪霊が私を用いるか、神が私を用いるかの闘いが先ず展開されることから始まるのです。神が与えてくださるものを感謝して受けることが、信仰の闘いに打ち勝つ第一歩なのです。

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信仰の真理

テモテの手紙一 3:16

2004年7月11日

本日の聖句テモテへの手紙一3章16節にある詩は三行詩で、其々が対立を持っています。即ち1行目は《肉と霊》、2行目は《天使たちと異邦人》、3行目は《世界(この世)と栄光》です。このキリストの本質が、今や天にも地にも告げ知らされ、地上では信仰によってその支配は拡大されて行き、それは天の栄光のうちに上げられた。と詠っています。 パウロは私たちの目をイエスという人間の姿に向けさせ、そこからキリストご自身を神の子と認識させるのです。即ちあのペンテコステにおいてはじめてキリストの名がイエスに結びつき、天使たちに現され異邦人に宣べ伝えられ、世界へと広げられ信じられて行くのです。

信仰は人間的、肉的領域を超えたときに、はじけるような力を持ち拡大せられていくのです。聞く耳を持たないと思われていた異邦人そして世界中で信じられています。この讃歌は高く栄光の座に上って行かれた方から出ているのです。

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神の家

テモテの手紙一 3:14-15

2004年7月4日

「神の家」は「神の教会」です。そして、神の財産は神の恵みを内容として結び合った人々です。これによって一体とされた教会は神のものであり、真理がそこに宿るために神のみ手によって造られた、神の真理のために立てられた教会となっていくのです。

そこから教会の肢なる一人ひとりが働き人として立てられ用いられていくのです。従ってパウロは国籍・教養・財産といった、外的条件を問わず教会の働き人を求めるように勧めるのです。それによって、一人ひとりの特性が用いられ、一つ一つの教会の特性が生かされていく神の教会とされ、成長させられていくのです。

「イエス・キリストを信じる信仰において一つ、他はすべて自由」という考え方がパウロの中心的教会形成の思考であったといえるのではないでしょうか。「神の教会」即ちエクレシア「神に呼ばれ召された者たちの集い」としての「神の家」を共に建て上げて参りましょう。

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女性と男性

テモテの手紙一 3:11

2004年6月27日

本日の聖句のシュラッター訳をご紹介しましょう。「婦人たちも同じように品位あり、中傷をこととせず、平静で、すべてに信頼のおける人たちであるように」(テモテ一3章11節)。 ここでは、特に女性と男性の間に差別がないかのように思われます。しかし、当時は著しい差別があったことは史実とされていました。そのような中で、女性解放の始まりとも思えるパウロの言葉とキリスト教会の状況は注目に値すると思われます。 それは容易なことではなかったのです。教会が世間を敵に回しかねない危険を承知しながら、差別と中傷はキリストの福音に反することであることから、先ずは女性の特性を用いる方法で、女性執事を立てることを勧めています。

どんなに素晴らしく見えることも、キリストの福音に反するならば教会は教会でなく、クリスチャンはクリスチャンでありえないのです。

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教会の奉仕者

テモテの手紙一 3:8-13

2004年6月20日

パウロはテモテに「教会の奉仕者」について書き送っています。教会の指導的立場にある人は「仕える者」であると同時に、社会から見ても尊敬される人でなければならないというのです。何故ならば、教会の外から非難されるようではみ言葉の宣教が出来ないからなのです。 「二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、・・・品位のあるひとで・・・中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません」と現実の社会における注意点を述べております。 そうすることによってその人自身、「神に一段と近づく」あの創世記28章に見られる「ヤコブの梯子」を連想する、「信仰の確信」に至らせるのです。

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祝福の継承

テモテの手紙一 3:8-12

2004年6月13日

本日(6月13日)はキリスト教暦で「子供の日・花の日」です。この行事はアメリカの教会から始まったものだそうです。 私たちにとって祝福することは、神様からいただいた、使命であり特権でもあります。ましてや、幼い私たちの子供たちとなれば、祝福をおくらずにおれないのは、当然でありましょう。

さて、聖書には私たちを「祝福を受け継ぐため」に召された、と記されています。このことは、この世における様々な闘いや平安の中にあっても、同じように祝福するものであるように召されたのです。

教会が祝福をする教会であり続けられる限り、教会自身も祝福を受けることが許されるのです。祝福することそれはまさに、教会の業の中で、最も光栄ある業なのです。今日の礼拝で幼子らに対して祝福をおくることは、未来に続く光栄あることです。豊かなる祝福が幼子らの上にあるように祈りましょう。

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教会の指導者

テモテの手紙一 3:1-7

2004年6月6日

パウロは今、ここまでの(1)神の恵みを正しく宣べ伝えること、(2)教会の祈りのこと、(3)教会での婦人の位置のことに次いで、「どんな人が教会の指導者に相応しいか」について語っています。一般的に指導者は「偉い人」「指導力のある人」「模範になる人」と言われていますが、パウロの言葉によると「信仰において仕える人・謙虚である人」「教会の外部からも評判のよい人」である必要があると言っております。

そこにパウロの言う教会と一般社会との違いが示されているのではないでしょうか。即ち、立派な指導者とは人に仕える人であること、更に、高慢になって自ら神から遠のくものであってはならないです。教会にあっては、「仕える人」「謙虚な人」は指導者の第一条件であると言っているのです。

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聖霊の働き

テモテの手紙一

2004年5月30日

今年は本日(5月30日)がペンテコステです。この日はキリスト教会の誕生日とも言われております。この日に人間を遥かに超えた業が興され、弟子たちが突き動かされ用いられたのです。それは神の力、神の働きであり、人間を支配し、導き動かす事実を聖書から読み取ることができるのです。

ヨハネ(マルコのこと)がかつて何らかの理由で一行を離れて、帰ってしまった事についても、当時は裏切り行為として憤慨したパウロが後に書いたテモテ書では、「マルコをつれて、一緒に来なさい。彼はわたしの務めのために役に立つから」と書いています。

私たちにとって、その時々には神は黙して働かれないかのように見えます。しかし、神は人間を遥かに超えて、支配し導き動かしておられ「聖霊の働き」を通して、救いへとご計画を進めておられるのです。苦しく悲しい出来事しか見えない私たちの小ささ、貧しさを、その向こう側に救いと恵みと祝福を用意しておられるのです。

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祈りの障壁

テモテの手紙一 2:8-15

2004年5月23日

信仰生活において「祈ること」は最も大事なことです。しかし、祈るときに「赦す」ことなしには、祈りの意味をなさないのです。「主の祈り」の中で「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」と祈るように、主イエスは教えられました。

教えられた方が十字架の上で、執り成された人々に架けられたイエスであることが、赦すことの重さと深さを示しています。 しかも、イザヤ書1章15節にありますように「血にまみれた手」で祈る祈りは「決して聞かない」と語っています。それは華美な装飾に隠された罪深い祈りではなく、「善い業」即ち「愛の業」で「身を飾」った祈りをすることが勧められています。

私たちの祈るべき祈りは「信仰と愛と清さ」をもって祈る祈りであることが求められているのです。そのためには「赦す」ことによって、先ず友との間の障壁を取り除くことが大事であると、パウロは語っているのです。

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人の為の祈り

テモテの手紙一 2:1-7

2004年5月16日

教会の一番大切な行為は「祈りを捧げること」です。常に強い欠乏と窮乏から生じ、助けを渇望する願いです。それも自分という小さな範囲に限らず、他の人の為の執り成しと感謝、これは授けて下さった贈り主の慈しみを認め、讃美することなのです。

教会が自分のことばかり考えているならば、その礼拝が正しく行われることはないのです。教会の祈りは全ての人の為に行われるべきであります。 教会は真剣な信仰的祈願と感謝を携えて、神が自分たちとの関わりに招き入れた人々と全ての人々のために、神の前に立って祈ることが本来の信仰のありかたであり、愛が広く拡げられ、教会が健全さを保つことができるのです。私たち一人ひとりの信仰もまた同じことがいえるのです。

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信仰の闘い

テモテの手紙一 1:18-20

2004年5月9日

第二伝道旅行にテモテを連れて行くように、パウロを決断させた出来事とみ言葉をテモテに思い起こさせています。使徒の働きは愛を目標とし平和の奉仕ですが、一方では戦闘のようでもあります。それは内なる闘いであり、人と人の間の問題だけではなく、自らの中における問題でもあるのです。

テモテ自身が先ずキリストに対して正しく純粋な関係に立ち続けなければならないのです。即ち、宣べ伝える者にとって召命の実行と救いは完全に一体でなければならないのです。

神の声より自分たちの力や説得力を頼りにして語ってはなりません。何故ならば、誤った考え方や教えを正当化するために更に歪曲化してしまうからなのです。

信仰と正しい良心をもって、信仰の闘い即ち、キリストの十字架における闘いに参与するようにと、聖書は今私たちに語りかけています。

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神の憐れみ

テモテの手紙一 1:12-17

2004年5月2日

パウロは以前は、キリストの弟子たちを捕らえては牢獄に投じていた者でした。それがあのダマスコにおいて甦りのイエスに出会って百八十度変えられ、今まで迫害していたキリストの福音を宣べ伝えるようになったことについて、彼は「神の憐れみ」であるというのです。何故ならば「憐れみ」とは「赦し」であって、迫害していた者を赦して「キリストとの交わり」に入れたくださったのです。

更に「わたしはその罪人の中で最たる者です」と自分でいっています。その彼が自分のことを「手本」といっています。この「手本」とは「こんな私でさえこのように変えることのできる方が、あなたを変えられない筈はない」という意味で「手本」といっているのです。

しかも、「罪人の中で最たる者です」というとき現在形を使っているところに、今日の私たちに対しても「変えられる方」として関わってくださることを示しているのです。

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福音を委ねられて

テモテの手紙一 1:8-11

2004年4月25日

パウロは律法に対する非難を拒否します。律法の誤用はその者の責任であり、そのうえで律法の目的は「罪とは何であるか」を私たちに教え、その罪に対して死をもたらすと言っています。その罪が義とされるためには、唯一神の赦しによるしかないのです。神がご自身に和解させた者たち以外に義人はいないのです。

教会で語られるべき言葉は、神に源を持ち、キリストを通して与えられる福音のみであって、その言葉は律法によって裁かれている罪から解き放つのです。

こうして神が律法から解放し、福音の上に教会を建ててくださったことに目を向けるとき、パウロの心には自分自身の召命が浮かび上がり、この大いなる神の御業の中で、彼は神に用いられる道具となるのです。

今、私たちの教会にその光栄ある召命が与えられているのです。良き神の器としてその業を担って参りましょう。

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愛を目指して

テモテの手紙一 1:8-11

2004年4月18日

テモテへの手紙一の1章5節「清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです」の言葉は、「実直な心、正しく働く良心、安んぜられた良心、即ち、言行一致の信仰をもって『愛を目指す』のです」。それはまさに「愛の訓練」、「信仰の訓練」です。

この神から与えられた命令だけが、神のみ言葉に繋がる愛へと導いて行くのです。 私たちの真実の愛によって、神と人々への奉仕へと導き入れられるのです。従って教会で語られる一つ一つの言葉はこの尺度によって測られなければなりません。命じる者も命じられる者もこの目標から目をそらしてはならないのです。

エフェソにおいて始められた信仰の戦いが、私たちの教会と現実社会において目指すべき信仰の戦いへと導き、この目標を目指すべきことが語られているのです。

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復活の主

ヨハネよる福音書 20:11-23

2004年4月11日

復活されたイエス・キリストが弟子たちに寄せられた関心事は 「引継ぎのこと」とヨハネによる福音書は記しております。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」即ち、父なる神から引き継いだ召命を弟子たちに引き渡すといっておられるのです。

そして、弟子たちが受け継いだ召命が二十一世紀のわたしたちに引き継がれているともいっているのです。その内容は「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」即ち、わたしたちの引き継いだ業は、「罪を赦すこと」だとヨハネ福音書はわたしたちに告げています。

十字架の向こう側、即ち死の向こう側に見えた復活は全ての罪を赦す贖罪の神の行為だったのです。

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十字架の死

ヨハネよる福音書 19:16-30

2004年4月4日

今週はキリストの受難週です。イエス・キリストが人々の罪を背負って十字架に架かられたことを記念して、私たちがその痛み苦しみを覚え、祈りをする週です。

イエス・キリストの十字架には「ユダヤ人の王」「ナザレのイエス」とピラトが書かせたと聖書にはあります。それを画家たちは「JNRI」と略して描いています。それが「King of Kings」として世界に知らしめる役割をなしたことになるのです。

イエス・キリストは十字架の上で「わたしは渇く」と言われましたが肉体の「渇き」もあったでしょうが、人の魂の救いを求めてやまない「渇き」をも意味していたのです。そしてそのことは「成し遂げられた」の言葉のなかに、旧約時代から預言されたことが成就することが明確に神からの約束として、与えられたことをここで強調されているのです。

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十字架への道

ヨハネよる福音書 19

2004年3月28日

イエスが十字架に架けられるために通られた道を、「ヴィア・ドロロサ」とラテン語でいい、「悲しみの道」という意味である。これはまさに「十字架への道」である。しかし、14ステイションあるポイントの全てが、慰めと励ましそして執り成しの祈りに満ちているのです。 人々の嘲りに対しては、「彼らを許し給え、彼らは何をしているのか解らずにいるのです」と執り成し、イエスのために泣いている女たちに対しては「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」とこれから迫ってくる事柄に思いを向け、備えをすることを呼びかけられるのです。

人々が保身と都合によって、イエスを十字架に架けるのに対して、イエスは十字架に架ける人々のために祈り、執り成し、励ましをなさる。それがイエスの十字架なのである。そして、ゴルゴダへの道を一歩一歩と十字架を担いで歩み行かれるのです。

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かけがえのないあなたのために

ルカよる福音書 15

2004年3月14日

本日の聖句、ルカによる福音書15章1〜7節のなかに「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」とありますが、九十九匹を危険にさらしたまま、一匹を捜しに行くことはありえないことです。しかし、神はあなたのためにそのことをなさる方なのです。 さらに「そして、見つけたら、羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」と続きます。神は百の中のあなたとしてではなく、「かけがえのないあなた」としておられるのです。また「見失った」とありますが、神に見失われていたのではなかったのです。 失望、落胆の中にあっても、神はあなたを捜し求めておられることを忘れないでいてください。

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生きること

ヨハネによる福音書 15

2004年3月7日

イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われます。「わたしにつながって」おれば生きて「豊かに実を結ぶ」が、「つながっていない人は枯れる」といわれます。ここで「つながって」と言われるとき、どんなことを意味するのでしょうか。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われることがその「つながって」いるありかたなのです。しかもご自身が十字架のうえでされたように「友のために、自分のいのちを捨てる愛」を実践するとき、あなたは「実を結ぶ」即ち「生きる」のです。

しかし、このことは不可能に近い難しいことです。だから従うことを諦める必要はありません。何故ならこのことを命じるイエスは「七たびを七十倍するほど許しなさい」と教えられた方です。今も許し続けつつ「友」となる日を待ち続けておられるのです。

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主と共に生きる

ヨハネによる福音書 14

2004年2月29日

イエスが父なる神を信じることによって「生きる」ように、私たちはイエスを信じることによって「生きる」のです。「信じる」ことの根底には「愛」があります。その意味から、イエスが先ず私たち人間を愛されたということは、私たちを信頼してくださったことを意味します。

「共に生きる」ことの出来ないほど私たちは、信頼性の薄いもの罪深いものであるにも関わらず、私たちを信頼し、子として受け入れてくださったのです。 そこから、私たちへの関わりが始められています。罪の淵に陥る、私たちに、手を差し伸べてくださったことから「共に生きる」ことが始められたのです。

私たちが「キリストと共に生きる」ことをはじめるまでは、イエスは手を差し伸べ続けておられるのです。その手により頼むとき、私たちも「共に生き」られると神は約束されるのです。

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天上の住まい

ヨハネ 14:1-14

2004年2月22日

ヨハネ福音書14章1〜14節に見られることは、イエスの受難の中にあっても、「信じる」ことによってその向こう側にある命と平安が少しも変わることなく、約束されていると言うことです。

弟子たちの心の中の動揺とそこから起こるであろう、否認と不安と混乱の中にあっても、神を信じる全ての人々にその「住まい」即ち平安と命を約束されるのです。これらのことを先ず弟子たちに約束された理由は、神を信じて宣べ伝え、讃え続けることによって、全ての人が永遠の命に入り、そこから来る変わることのない「平安への道」に導き入れられることが出来るためなのです。

イエスは私たちに次のように語っておられます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。」と。

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仕える者となれ

ヨハネ 13:1-11

2004年2月8日

「主であり、また師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(14節)この言葉を語られたのはイエスであり、「あなたがた」とは直接的には12弟子たちです。「あなたがた」即ち弟子たちを初めとするところの、イエスを「主」と信じ「師」と仰ぐ者全てが「足を洗い合うべきである」と勧められるのです。

イエスがこのことをなさったのは、十字架を頂点とする「愛」が、弟子たちを通して、受け継がれ語り伝えられて行くように、という願いをもってのことであったと思われます。

「愛」は身分の上下、主従関係など一切関係なく、互いに仕えあう関係を作りあげてしまうものです。 身体の弱い者がいて難渋しているならば、喜んで手を貸し身辺の世話をすることこそ、イエスの語り示される「仕える者となれ」の意味なのではないでしょうか。

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光の中を歩け

ヨハネ 12:27-36

2004年2月1日

シュラッターはヨハネによる福音書12章36節を「光の子となるために光をもっている間に光を信じなさい」と訳しています。さもなければ暗闇があなたがたにおそいかかって来るというのです。イエスと共に歩む者は、光の子だと言うのです。人は不安という陰を引きずって、悲しみという陰に恐れて日々を歩んでいます。 しかし、イエスを信じる者はイエスと共に歩むことによって、その恐れから解放され闇はキリストの臨在の輝きに照らされるのです。そして、そのときが今来ているのです。

今こそ光のとき、しかも今後二度とない最後のチャンスなのかも知れません。イエスは「今こそ、この世が裁かれる時」と決断を迫っておられます。忍耐をもって待っておられる間に信仰の決断をなさることを祈ります。

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愛ゆえの行為

ヨハネ 12:1-8

2004年1月18日

1リトラ300デナリオンの香油は今の日本円に置き換えることは大変難しいことです。そこで単純化してみますと、320ccの香油150万円分をイエスに注ぎかけたというのですから、ユダでなくても「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(5節)といいたくなるところです。

しかし、イエスは「この人のするままにさせて置きなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」(7節)といっておられます。「葬り」即ちキリストが人々の罪を背負って十字架に架けられたあの死の「葬り」のための用意だと言われるのです。

マリアの行為を「愛ゆえの行為」として高く評価し用いられたのです。そして、マタイによる福音書では「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう」(26章13節)と記しております。

愛には打算はなく注がずにおれない行為であり、キリストの十字架に相応しい行為だといえるのではないでしょうか。

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人々の陰謀

ヨハネ 11:45-57

2004年1月11日

「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方があなたがたに好都合だとは考えないのか」(ヨハネ11章50節)と大祭司カヤパが豪語しています。このことばはそのまま神の独り子イエス・キリストが十字架に架かられて、人々を救いに与からせたことを、意味することばとなっています。

カヤパを初めとして、サドカイ派やファリサイ派の人々も自らの保身のために、イエスを殺そうと企んだのです。そしてこの企みは神が用いられることとなるのです。即ちあのゴルゴダの丘の十字架が現実となっていくのです。

一人の人即ちイエスが私たち人に代わって、十字架に架けられて死ぬことによって、イエスを信じる全ての人が神に受け入れられて救いに与からせて戴けるのです。

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新たな力を

イザヤ 40:27-31

2004年1月4日

教会が教会として立って行くという時、宣教の業が人と人との間で推進されていくことを意味するのです。即ち、人と人との間で神が語られていってこそ教会が教会になっていくのです。

人は「疲れ」「弱り」「倒れる」のですが、神はそれらの人々に「力を与え」「強さ」を増してくださり、「主に望みをおく人は新たな力を得」るのです。私たちを導き、支えてくださる神は現代科学でいうと百五十億年、宇宙の創造と支配をしておられる方であります。何を恐れ惑うことがありましょうか、むしろ真実の神を知らないために「弱り」「疲れ」ている人々に神を語り伝え「新たな力を」得させてあげようではありませんか。

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