キリスト教にはどのような
特徴がありますか。
何を信じているのですか。

キリスト教はしばしば「愛の宗教」といわれます。隣人を愛すること、敵を愛すること、神を愛することを大切にします。

イエス・キリストは、社会から見捨てられたような弱い人々とともに生きられ、たとえ他人に見捨てられ生きる希望を失っているような人でも、やはり神は自分のこどもとして愛しているのだ、と言い続けられました。

自分も、隣人も、すべての人が等しく神に愛されているというのがキリスト教の中心的な信仰です。私たちの教会の信仰告白もご参照ください。

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「進化論」や「科学」との
関わりを教えてください。

「科学」は真理を探究するものですが、真理そのものではありません。毎日のように進歩しつづける「科学」は、真理をもとめて歩み続ける人間の営みです。100年前の「科学」が現在の「科学」と異なるように、100年後の「科学」もまた現在の「科学」と大きく異なっていることでしょう。たとえば科学者の間で議論される「進化論」にも、さまざまな理解があり、新しい実験結果や観察結果にもとづいて、さまざまな立場から議論がつづけられています。「科学」は教科書にのっている「正解」の羅列ではなく、真理を探求する真摯な営みです。

この真理を求める営みであるという点では、信仰も同じです。しかし、信仰は、あなた個人が世界をどうとらえていかに生きるかという、いま現在、そしてあなた個人の問題です。

「進化論」を唱えるどこかの偉い学者と、偉そうな「宗教者」のどちらが優勢か、リングサイドで観戦していればいいという問題ではありません。むしろ、さまざまな見方を知ったうえで、あなた個人の生き方を自分で選び取らなければなりません。そのような個人の真摯な歩みを規制したり妨害したりしてはならない、というのは歴史が証明しているのではないでしょうか。

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クリスチャンネームが
もらえるのですか。

カトリック教会では、いわゆるクリスチャンネームをつけていますが、多くのプロテスタント教会ではクリスチャンネームをつけていません。

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キリスト教の「救い」
とは何ですか。

「対立や孤立」からの「和解」です。

隣人からの孤立、「罪」をおかすことによる社会、世界、ひいては神からの孤立と、それらとの対立。思うようにならない人生に対する失望と虚しさ。それらすべてを、「それでもあなたを創造した神は、あなたを愛している」という希望で乗り越えることが、キリスト教の言う「救い」です。

クリスチャンはみな「救われた」経験を持っています。それは小さな経験だったり、大きな経験だったり、そのときは夢中で、後で気がつくような経験だったりと様々です。非常に個人的な経験でなかなか話してくれないこともあるかもしれませんが、クリスチャンに聞いてみてください。

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聖書はどこから
読めばいいですか。

市販されている聖書は「旧約」と「新約」の2つのパートからできています。「旧約」39巻と「新約」27巻は預言書や書簡、福音書などから構成されています。

「旧約聖書」はユダヤのトーラと共通し、ユダヤ教的な世界を強く反映した書物ですが、キリスト教信仰を深く理解する上では欠くことのできない部分です。ですから本当は旧約聖書の一番最初の「創世記」からお読みいただくのが一番良いのですが、「大変だ」とお思いの方には「新約聖書」の最初にある「福音書」からお読みいただくことをお勧めします。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書はそれぞれに特徴があり一概には言えませんが、まったくの初めてであれば「マルコによる福音書」や「ヨハネによる福音書」からお読みいただくのがいいのではないかと思います。

聖書は一人で読んで理解することがなかなか難しい書物です。教会には「バイブルスタディ」のクラスもありますので、そちらのプログラムに参加されることをお勧めいたします。

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クリスチャンはお酒を飲まない
というのは本当ですか。

飲酒を固く戒めている教派もある一方で、ほとんどルーズと思えるグループもあり、一概には言えません。

イエスの時代にも「ブドウ酒」は一般的でしたし、イエスがカナの婚礼の席で最初になさった奇跡も見事なブドウ酒のプレゼントでした。ただし、新約聖書にも「酒によってはならない」とあり、このあたりの解釈により差が生じているのではないでしょうか。

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