バプテストABC

このコーナの著作者は東京中目黒にある恵泉バプテスト教会教育部です。1997年夏のサマーキャンプでの資料として作成されたものをそのまま転載させていただきました。

とても詳しく分かりやすい資料です。ぜひご一読ください。

A. 恵泉はなぜ「バプテスト教会」なのですか?

いまから48年前の1949年3月13日、アメリカの「南部バプテスト連盟」のE.B.ドージャー宣教師が下馬の自宅で聖書研究会を開き、その研究会を母体にして同年8月14日に恵泉バプテスト教会が教会組織されました。

初代牧師はドージャー師であり、以来南部バプテスト連盟と宣教協カ関係にある「日本バプテスト連盟」の諸教会の一つとして歩んできました。あと2年で最初のヨべルの年(レピ記25章8節以下)を祝います。

E.B.ドージャー師

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B. 「南部バプテスト連盟」とは?

アメリカは建国当初、ヨーロッパでの迫害を逃れてやってきたプロテスタントにとっては「新天地」ともいうぺきところでした。それゆえ、バプテスト派はもちろん、長老・改革派、会衆派、メソディスト派といったプロテスタント自由教会諸派が教勢をどんどん伸ばしました。

しかし、奴隷制をめぐってアメリカが南北に分裂した頃、アメリカ・バプテストの国内伝道協会が奴隷所有者を宣教師に指名しないと決議したことから、1845年、その決議に反対する者たちが「南部バプテスト連盟」を結成しました。それに賛成する北部のバプテストたちは「アメリカン・バプテスト連盟」を結成し、アメリカのバプテストはおもに二派に分かれました。同様のことは、長老派、メソディスト派でもおこりました。

ちなみに、「アメリカン・バプテスト同盟」と宣教協カ関係を結んでいるのは「日本バプテスト同盟」の諸教会です。

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C. 「南部バプテスト連盟」が
アメリカ・プロテスタント
最大の教派だというのは
本当ですか?

本当です。この教派は禁酒を維持し、信仰的には保守的で伝道に力を入れてきました。信徒伝道としての日曜学校運動も積極的に取り入れ、1997年現在、40,087教会、約1,506万5千人の信徒がいるといわれています。かのジミー・カーター元大統領は熱心な信徒です。ビル・クリントン大統領もサザン・バプテストだといわれてます。

しかし、アメリカには、言語・人種・民族によって多数のバプテストの教派があり、たとえば黒人バプテスト教会には、最大の「ナショナル・バプテスト・コンヴェンション・USA」(約850万人の信徒)と、「ナショナル・バプテスト・コンヴェンション・アメリカ」(約350万人の信徒)などがあり、公民権運動の指導者キング牧師は黒人バプテスト教会の牧師でした。

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D. 「日本バプテスト連盟」と
「南部バプテスト連盟」の
関係は?

アメリカ人バプテストによる日本伝道は、1860(万延元)年に再来日したのジョナサン・ゴープルに始まるといわれています。入力車を発明したゴープルは「摩太福音書」を、1873年に来日したネーサン・プラウンはひらがな体の新約聖書を翻訳しました。いずれも、「アメリカン・バプテスト」派遣の宣教師でした。

「南部バプテスト連盟」は1860年に宣教師を派遣しましたが、船が行方不明になり、日本伝道への祈りはすぐに実現できませんでしたが、1889年になってJ.W.マッコーラム夫妻、J.A.プランソン夫妻が同派派遣の宣教師として初来日しました。大日本帝国憲法制定の年です。

その後アメリカン・バプテストとの申し合わせにより、九州を中心とした伝道活動が「南部バプテスト連盟」によってなされ、1903年、日本バプテスト連盟の前身である「日本浸礼教会西部部会(翌年西南部会と改称)」が発足しました。1919年、西南部会は「日本バプテスト西部組合」として新発足しましたが、1940年にアメリカン・バプテスト系の「東部組合」と合同、「日本バプテスト基督教団」となり、開戦時の1941年には「日本基督教団第4部」に組み込まれ、ここに「バプテスト」という教派は解消することになります(この点は質問Kで説明します)。

強制送還命令により最後の交換船で帰国を余儀なくされるもハワイに踏みとどまって日本伝道の機会をうかがっていたE.B.ドージャー師の呼びかけにより、1947年、西部組合系16教会によって「日本バプテスト連盟」が結成され、「南部バプテスト連盟」と「日本バプテスト連盟」の伝道協カ関係が確認されました。日本国憲法制定の年です。「全日本にキリストの光を」を合言葉に宣教師が相次いで来日し、新しい会堂が次々と建設されていきました。恵泉教会の土地と会堂も1953年に「南部バプテスト連盟」諸教会の祈りと献金によって与えられたものです。その後1976年に、日本バプテスト連盟は経済的な自給化(神学校経費をのぞく)を達成し、経済的に独立した両派の関係は友好的な宣教協カの一点にあるといえます。

1997年現在、日本バプテスト連盟には333の教会・伝道所があり、33,211(現在会員数16,462)名の信徒がいます。沖縄バプテスト連盟など他の日本のバプテスト教会を入れると、信徒総数は約5万人といわれています。

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E. 世界のバプテストについて

バプテストといってもアメリカだけに限定されるものではありません。バプテストは世界各地に広がっています。

その世界中のバプテストが1905年にイギリスのロンドンに集まり、「世界バプテスト連盟」(BWA)が結成され、その後5年ごとに世界の各都市で世界大会が開かれています。1995年には第17回大会がアルゼンチンのプエノス・アイレスで開かれ、200か国以上の国からバプテストが集まりました。1995年現在113か国153,310教会、4,070万1,320人の信徒が世界バプテスト連盟に連なっています。

詳しい地域別信徒数内訳は、アフリカ302万8,408人、アジア279万2,588人、カリプ諸島19万3,780人、中央アメリカ11万6,024人、ヨーロッパ76万9,334人、中東3,983人、北米3,252万1,738人、南米127万5,465人となっています。

それから、日本バプテスト連盟は、世界のプロテスタントの超教派(エキュメニカル)な団体である「世界教会協議会」(NCC)にも加盟しています。

「日本バプテスト連盟」のシンボルマーク

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F. バプテスト教会の
起源について

17世紀前半のイギリスです。いまから約390年ほど前のイギリスでは、宗教改革によってカトリック教会の勢力は弱まったとはいえ、国王を教会の最高首長に戴くイギリス国教会(聖公会)が支配していました。その教会は宗教改革に熱心ではなかったため、そこから分離して教会の純潔性を守り抜こうとする人々は、迫害にあうか、宗教的に寛容であったオランダやアメリカに亡命する以外に道はありませんでした。1608年、オランダ・アムステルダムに亡命中のイギリス人分離派のなかから幼児洗礼を否定し、みずから信仰を告白して再洗礼を実行する人々が現れました。しかし、その後ジョン・スミスを指導者とする人々は、この世の権威を否定する大陸再洗礼派(アナバプテスト)に加わろうとしたので、トマス・へルウィスを指導者とする人々は、スミスたちを破門して、「亡命は誤りであり、殉教覚悟で」イギリスに戻り、1612年にロンドン郊外に最初のバプテスト教会を設立しました。かれらは、「キリストは万人のために死んだ」という普遍恩恵救済説を信じたのでジェネラル・バプテスト派とよばれています。

他方、「キリストは選ばれた者のために死んだ」という特定恩恵救済説を信じるパテキュラー・バプテスト派も1630〜40年代のロンドンで発生しました。かれらは会衆派の教会からまず分離し、次に幼児にまで再ぴバプテスマを行いました。1638年「バプテスマは幼児のためにあるのてはなく、告白した信仰者のためにあると確信した」(マルコによる福音書16章16節、ローマ人への手紙10章9、10節)ジョン・スピルズバリィを指導者とする教会が「信仰者のバプテスマ」を行ったといわれています。バプテスト教会の起源を「信仰者のバプテスマ」に求めるなら、ここにその起源があるといえましょう。その後バプテスマの様式についての議論が活発になされ、1642年に現在のようなバプテスマ、すなわち「浸礼」(ローマ人への手紙6章4節、コロサイ人への手紙2章12節)が採用されました。ジェネラル派も最初は「滴礼」を実行しており、浸礼が採用されたのは1650年代以降のことです。

ところで、「バプテスト」という言葉は、他教派、とりわけ「霊のバプテスマ」を強調するクエイカー派の人々からつけられたあだ名で、本人たちは最初「バプテスマを授けられた人々からなる教会」と名乗っていました。霊にあふれたクエイカー派の人の眼には、バプテストはバプテスマという「儀式」ぱかり強調するどうしようもない人々と映ったのでしょうが、あだ名がいつしか本名にかわってしまったのは滑稽なことです。イギリスにおいてはパティキュラー・バプテスト派の勢力が強く、これがアメリカに伝道し、それが地球を180度回転して100年以上も前に日本に上陸したということなのです。

イギリス国教会主教D.フィートレーが出版した異端攻撃文章『水没した沈礼派』(1645年)の扉絵。悪魔がバプテスマ式に臨み、バプテスマによって生まれるとされた様々な再洗礼派異端を紹介する構図になっている。

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G. 初代バプテスト教会の
担い手はどんな人?

初代のバプテスト教会の主要な担い手には著しい特徴があります。カトリックはもちろんのこと、プロテスタントでも、イギリス国教会、長老・改革派、会衆派の牧師たちが総じてオックスフォード、ケンプリッジ大学出身の聖職者だったのに対して、バプテスト派の指導者たちは一方で世俗の職業に従事する平信徒たちでした。

大陸再洗礼派に走ったジョン・スミスはケンプリッジ大学出身の元国教会聖職者でしたが、トマス・へルウィスは「ジェントリ(小領主)」、へルウィスと行動をともにし獄中生活の犠牲になったジョン・マートンは「毛皮商人」、会衆派の教会から分離したサミュエル・イートンは「ボタン製造工」、初めて「信仰者のバプテスマ」を唱えたジョン・スピルズバリィは「靴下製造工」、ジェネラル・バプテスト派の伝道に従事したトマス・ラムは「石鹸製造工」、エドワード・バーバーは「仕立屋」と枚挙にいとまがありません。「鋳掛屋」にして作家のジョン・バンヤンの例をもちだすまでもなく、初代バプテスト教会の牧師には、平信徒、とりわけ遍歴の手工業職人が多かったのです。

これには、2つの理由が考えられます。第1は、経済的に専任の牧師給を捻出できないほど教会が小さく、貧しかったことです。第2は、平信徒ならではの主張です。すなわち、聖職者たちはギリシャ語、ラテン語の「知識」によって聖書を解釈しているにすぎず、神の救いにとって一番大切な「聖霊」をないがしろにしているというものです。「靴の修繕屋」サミュエル・ハウは居酒屋での説教においていいました。「み霊の教えをもっているのなら、無学な者こそ牧師にふさわしいし、救われるのだ」と。

これらの平信徒説教師たちは、聖職者から「職人説教師」「桶説教師(オケを講壇の代わりにしていたから)」と軽蔑されましたが、多くの人々の出入りする居酒屋で説教したように、庶民の生活に根ざしたところで伝道に従事したのです。やがて、神学校出身の専任牧師を擁することになりますが、バプテスト教会の特徴に「万人祭司」の伝統が挙げられるのは、神学教育は大切だが、それによって召命が与えられるのではないという宗教改革の原点を主張してきたからです。

サミュエル・ハウ(靴屋の修繕人)の平信徒説教を嘲笑する『うじょうじょしたセクト』(1641年)の扉絵。なるほど居酒屋で桶を講壇の代わりに用いた構図になっている。この構図は広く用いられ、平信徒説教は「職人説教」「桶説教」と蔑視された。

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H. 「バプテスト教会」とは?

初代の信仰告白を読むと、教会について次のように記されています。「キリストの教会は・・・・信仰と罪の告白にもとづいて行われるバプテスマによって、主ならぴに教会員相互へと結び合わされている交わりである」(ジェネラル派1611年告白第10項)。「教会は、・・・・聖礼典の参加にかんして、相互の合意によりその信仰に忠実にバプテスマされ、主ならぴに教会員相互へと結び合わされている見える聖徒の交わりである」(パティキュラー派1644年告白第33項)。

ここでいわれていることは、バプテストにとって教会とは、教会員相互の合意により、それぞれの信仰告白にもとづくバプテスマを通じて各自が主イエス・キリストと教会員相互に結び合わされている交わりなのだということなのです。したがって、バプテスト教会は、教会契約をもち、それに合意すれば教会員になるという形式的な教会てはありませんし、「霊のバプテスマ」という言葉が示すような各自の内面的な告白だけで教会が成り立つと考えるほど無定型な教会でもありません。

大切なことは、信仰告白にもとづくバプテスマというすぐれて「主体的で客観的な行為」をつうじて、教会が成り立っているということなのです。

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I. 個々のバプテスト教会では
会衆政治による自治が尊重
されると聞いていますが?

恵泉のような個々のハプテスト教会にとって、「日本バプテスト連盟」はカトリック教会の「バチカン」に象徴されるような上位機関ではありません。それは、「恵泉バプテスト教会信仰告白」の「教会」の項が述べているように、「福音宣教において他教会との協方を惜しまない」という「宣教協カ体」という理解にもとづいています。

なぜ、バプテスト教会が上位機関をもたないかというと、質問Gで触れたように、初代バプテストたちが聖職者の権威を批判したために、「聖ぺテロ」以来、按手や叙任によって維持されてきた —上は法王・国王から下は平信徒にいたる— 「身分的位階構造」(ヒエラルキー)を否定したことに由来します。

では、教会の権威はどこにあるかといえば、各個教会にあるのです。バプテストは、第lに、マタイによる福音菩18章20節によって各個教会の主権を尊重し、第2に、コリント人への第一の手紙12章27節によって各個教会の働きを尊重し、第3に、テモテ人への第一の手紙3章2-7節によって各個教会からその教会の牧師が選出されることすら奨めました。

第3の点は現実にはなかなか難しいのですが、「恵泉バプテスト教会信仰告白」の「教会」の項「私たちは、ひとりひとり、主にあってすべて平等であり、与えられたそれぞれの賜物と責任とのおいて教会の営みに参与する」とは、バプテスト教会のこのような教会観に裏付けられた言葉なのです。

バプテスト教会などの「職人説教」を批判するパンフレット『ひっくり返った桶説教師』(1647年)の扉絵

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J. バプテスト教会はどの教派よりも「教会と国家の分離」を明確に告白してきたと聞いていますが?

プロテスタント教会といっても、ルターやカルヴァンはそれぞれ、この世の統治者に期待しました。ルターは、ドイツ各地を支配する領邦君主にプロテスタント(ルター)派領邦教会の世俗的統治者の役割を期待し、カルヴァンはより積極的に、ジュネープの市政府に「神聖な統治者」として全住民に信仰訓練を強制することを期待しました。これらの宗教改革者にとって、教会と国家の役割の違いは理解できても、なお両者は一体であったといえます。

幼児洗礼を拒否し、信仰者のバプテスマにより新しい教会を設立したバプテストは、初めから「死すぺき人」である世俗統治者の支配するこの世の国と、「永遠の生命」てあるキリストの支配する神の国、すなわち教会とを区別していました。

かれらは、ローマ人への手紙13章によりながら、主にあって統治者に服従すべきであるといいながらも、キリストのみが教会の立法者なのだから、統治者は教会(宗教)の事柄に介入すぺきでないし、キリスト者もこの世の事柄以外では統治者に服従する義務はないと告白したのです。ここに、世界史上はじめて、教会と国家の分離が明確に表明されたといえます。

また、このような分離は教会員の信仰の在り方と無関係ではありませんでした。バプテストはみずからの救済責任と霊的自律性を明確にさせるためにむしろ分離を積極的に告白したのです。へルウィスは国王に対してこう訴えました。「国王よ。人間は自分たちの宗教をみずから選択することにおいてほぼ平等であると考えたらいいのです。人間は神の審判の座の前で、みずから擁護して答えるために自分でたたなければならないからです。その時、国王、もしくは国王から権威を賜っている者たちによってこの宗教をもつように命令、ないし強制されたと弁解したら釈明にならないからなのです」。

みずからの救済責任と深く関連した個人の「良心の自由」こそ、「最初の人権」として譲ってはならない点であり、バプテストは、この「良心の自由」の保障を求めて、志願兵(ヴォランティア)としてピューリタン革命に参加し、その結果、宗教的に中性化された近代国家を形成するのに貢献しました。

亡命から帰国したトマス・ヘルウィスが国王ジェームズ1世に献呈した『不正の秘密の簡潔な宣言』(1612年)の直筆献詞。「国王は死すべき人間であって、神ではない・・・・もし国王が霊的領主や法律をもうけるとしたら、国王は不滅の神になっていまい、死すべき人間ではなくなるのです」と「良心の自由」を直訴している。

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K. 日本における政教分離と
バプテスト教会の関係は?

大日本帝国憲法制定と同時に伝道された日本のバプテスト教会ですが、天皇制絶対主義のもとで伝道は困難をきわめたといえます。たとえ「信教の自由」を標傍しようとも明治政府は「敬神愛国の旨を体すべきこと」を第一義としました。すなわち、「敬神」とは伊勢神宮の天照大神を敬うことで、帝国臣民であれば天皇の祖先である皇祖皇宗を崇敬しなければならず、「神社は宗教にあらず」として国家神道を別格扱いしたのです。

しかし、日本が中国大陸を侵略した15年戦争以前には、バプテスト教会は「信教の自由」を主張することができました。1928年宗教団体の国家統制を目論んだ法案が議会に提出されたさい、日本バプテスト西部組合は、「宗教発達の要諦として我がバプテストの主張し来る良心の自由を束縛するもの」として反対声明を表明しています。

ところが、1939年同様の宗教団体法が議会に提出されたときには、沈黙を守るのみでした。その頃、朝鮮では、神社参拝を拒否する朝鮮キリスト者の殉教がはじまっており、バプテスト(東亜基督教)のチョン・チギュ牧師も殉教者の一人でした。質問Dでも言及したように、1940年には東西バプテストの合同、41年には、バプテストという名前さえ奪われて日本基督教団に組み込まれ、戦争協力を余儀なくされたのでした。

敗戦後、日本国憲法と同時に始まった日本バプテスト連盟ですが、二度と奴隷のくびきにつながれまいとして、「恵泉バプテスト教会信仰告白」の「教会と国家」の項に述べられているように「見張り人」の役割を精一杯果たしてきました。

1967年から政府は靖国神社国営化法案を何度か提案しました。いずれも廃案になりましたが、同年の21回バプテスト連盟年会において、この法案が、第1戒で禁じられている疑似神を拝することになる、戦争を美化することになる、バプテストの信仰の根幹である政教分離を侵すということを理由に反対決議がなされました。その後、連盟内部に靖国神社問題特別委員会が組織され、1985年の首相閣僚の靖国神社公式参拝、1989年の前天皇の死去、1990年の即位の礼・大嘗祭など、「わかれ道」にさしかかったときには「警告」し、折りに触れて微カながらもバプテスト教会の使命を果たしつつあります。

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L. バプテスマについて

—病気や障害をもつ人のパプテスマは「浸礼」でなくともよい。
他教派からの転入会希望者に改めて「浸礼」を施す必要はない。—

これは、この数年恵泉教会の牧師・執事会で話し合いが重ねられ、今年の第50回総会で承認された事柄です。

病気や障害をもつ人々のバプテスマについては、これまで、浸礼によるバプテスマは身体的に無理という理由から信仰告白のみで教会員として受け入れてきました。また、他教会からの転入会希望者についても、その時々に牧師・執事会で話合われ、教会員に諮られたうえで、決断されてきました。

質問Fで学んだように、バプテスト教会においては、「古き人が十字架の死と共に葬られ、復活と共に新しい生命として生かされることを象徴する浸礼」が採用され、また「浸礼」こそが教派の独自性とされてきました。

しかし、パプテスマのこの様式に囚われるあまり、「信じてバプテスマを受ける者は救われる」というバプテスマ本来の意味を見失ってきたのではないでしょうか。すなわち、バプテストにとって重要な新生を表明する礼典であるバプテスマが、ある人にとって身体的に無理だからという理由で信仰告白のみにとどまったり、またある人にとっては、浸礼でなかったからという理由で2度、3度とバプテスマが繰り返されたりしてきました。

もちろん、わたしたちはバプテストとして浸礼を出来る限り遵守する教会ですが、質問Fで学んだように、歴史的には、最初から「浸礼」を実行する教会としてバプテストが生まれたのではなく、パプテスマは「幼児のためにあるのてはなく、告白した信仰者のためにあると確信した」群が実行した「信仰者のバプテスマ」から生まれた教会であり、その後バプテスマに相応しい様式として「浸礼」が採用されるにいたった経緯が忘れられてはなりません。

バプテスト教会は古き自分がキリストと共に十字架につけられ、キリストと共に新しい生命に生きる信仰者の共同体として、諸個人の信仰告白を大切にする教会てありたいものです。

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M. バプテスト教会は
国外伝道にも熱心だ
と聞いていますが?

カトリック・イエズス会士フランシスコ・ザピエルが鹿児島に上陸したのが、1549年ですから今から450年近くも前のことになります。スぺイン帝国全盛の16世紀は同時にカトリック世界宣教の世紀でした。

プロテスタント世界宣教は、産業革命によりイギリスやアメリカが富の恩恵を受けた19世紀に始まったといわれています。バプテストのウィリアム・ケアリーは周辺の反対を押し切って1793年インドに渡り、イギリス人による東洋伝道の一番手として40年間そこて宣教に従事し、35ものインド方言に聖書を翻訳しましたし、アメリカのプロテスタント外国伝道の一番手であるアドナイラム・ジャドソンは会衆派から派遣されるも、インドへの航海の途中でバプテストに改宗し、1823年にビルマ語聖書を完訳しました。彼と一緒にピルマに渡ったルーサー・ライスは帰国して1812年「アメリカ・バプテスト国外伝道宣教師総協議会」を組織し、1997年現在、南部バプテスト連盟は130ケ国へ、約4100人の宣教師を派遣しています。

バプテスト連盟はどうかといえば、戦前の西部組合において、1921年の上海日本人伝道、1937年の大連日本人教会の組織という出来事がありましたが、国策に組み込まれた部分が多く、短期で撤収を余儀なくされました。

敗戦後は、1955年にアメリカの施政権下にある沖縄を「国外」と位置づけ、最初の宣教師として調牧師夫妻を送りました。沖縄では祖国復帰の運動が高まりつつあり、戦争によって本土から切り離された沖縄の苦悩をよく理解しえていなかったのではないかとの疑念が1960年代半ばから起こり、昨年の第46回総会において、恵泉教会も共同提案教会として働きかけたのですが、引き続きこの問題を歴史的に総括するための委員会提案が可決され、そのための委員会が連盟に発足しました。

かつてブラジルでは戸上牧師夫妻、インドネシアでは浅見夫妻牧師が伝道し、現在連盟ではインドネシアに木村夫妻牧師、タイには日高夫妻牧師、シンガポールに加藤牧師夫妻を宣教師として派遣しています。

植民地帝国としては斜陽化したとはいえイギリスの「バプテスト同盟」は、現在でも世界30か国に200名を越える宣教師やボランティアをアフリカ、アジア、南米を中心に派遣しています。そのために、「バプテスト・ミッショナリ・ソサイエティ」(BMS)という専門部局を設け、神学生には神学校卒業と同時に任地として国内か海外かの選択を迫まり、何かと混乱と誤解の生じやすい海外宣教を専門的、組織的に遂行しています。また、海外へ赴く宣教師と任地の教会に対して、「バプテスト・メンズ・ムーヴメント」(BMM)という国内の支援団体が農業実践を中心に援助し、農業、教育、医療など任地で役立つ奉仕をつうじて、宣教師や任地の教会と国内の各個教会との関係を緊密化するように努めていたことが印象的でした。

イギリス・バプテスト同盟の海外宣教会(BMS)のパンフレット

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N. バプテストの霊的平等主義は
現世における人間の公正な扱い
を求め、それを実現するための
非暴力主義をうみだすのでは
ないでしょうか?

このバプテストABCを書いていてどうしても気になったのは、バプテストの霊的平等主義が教会の内部だけでなく、社会に対してもちうるインパクトについてです。

初代バプテストのトマス・へルウィスやジョン・マートンは、「神は人間を分け隔てなさいません」(ガラテア人への手紙2章6節)という点に「霊的平等」「良心の自由」の根拠を求めましたが、この世の統治者に対してもこう述べているからです。この世において「君主は、たとえ異邦人や取税人のような臣民であろうと、すべての臣民に正義と公正を提供しなくてはならないのではありませんか。もし君主が正義と公正をなさず、宗教的に破門されている臣民を保護しないとしたら、臣民は服従しなくともよいのではありませんか。「自分自身になすものをすべて隣人にもなせ」(マルコによる福音書12章31節、他)というキリストの法が遵守されなければならないのではないでしょうか」。これは人間の公平な扱い、すなわち、人権解放の問題と深くかかわってくるのです。

20世紀においてこの教えを実践したバプテストとしてマーティン・ルーサー・キング牧師のことを思い浮かべます。1955年アラバマ州モントゴメリー市において、キング牧師は、白人にバスの席を譲らなかったかどで黒人婦人が逮捕されたことに抗議してバス・ポイコット運動を指導し、この非暴カ抵抗運動の行動原理としてキリストの愛を強調したといわれています。「ぼくたちの行動は、ぼくたちのいだくキリスト教の信仰のもっとも深い原則によって、導かれなければなりません。愛こそぼくたちを導く理想でなくてはなりません。いま一度永い世紀をつらぬいてひびいてくる『敵を愛し、のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ』(ルカによる福音書6章27、28節)というイエスの言葉に耳を傾けなければなりません」(「自由への大いなる歩み」岩波新書、70頁)。

この非暴カ抵抗運動は382日間続き、翌年合衆国最高裁判所はバスの人種隔離政策を違憲とみなす判決を下しました。黒人は社会的解放のみならず、「わたしたちは神様の前は例外として、もう一度白人に頭をたれようとは決してしないでしょう」というまでに精神的解放を手にすることが出来たのです。もちろん当時のバプテスト教会のなかには、キング牧師の行動に反対した者たちもいたと思います。しかしながら、霊的平等が生み出す人間解放の運動をバプテスト教会のポジティプな主張として継承していきたいものです。

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